長崎から配流された信徒の歴史『萩キリシタン殉教者記念公園』(萩市)

山口県

萩の中心部にある萩キリシタン記念公園には、かつて長崎で検挙された後、この地に強制移住された信徒たちの歴史が残されています。江戸時代初期の「五郎太石事件」に関する石碑もあり、古くからキリシタン信仰が根付いていた地であることを感じさせられるスポットです。

訪問日:2026/5/3(日) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

萩とキリシタンの関係

かつて日本ではキリスト教を禁じる禁教令が施行されており、もし発覚した場合は罪人として扱われていました。そんな禁教令下の江戸時代末期~明治時代初頭に長崎で発生したキリシタンの大規模な摘発事件「浦上四番崩れ」。3,400人にも及ぶ信徒たちが検挙され、日本各地に強制移住させられます。

配流先のひとつであった萩にも多数のキリシタンが送られました。移送された信徒たちは改宗を迫られ過酷な拷問を受けることに。厳しい責苦の果てに、40名の信徒が殉教してしまいます。

前回書いた紫福地区は密かに信仰を続けてき「潜伏キリシタン」の歴史を感じましたが、ここは流罪となった「配流キリシタン」に関連する場所。同じ萩でも異なる背景を持つ信仰の歴史があるのです。

殉教者の眠る場所

そんなキリシタンの歴史に深い関わりを持つのが、萩城のすぐ近くにある萩キリシタン殉教者記念公園

近くに駐車場はありませんが、路肩に数台は停められます。萩城の駐車場「指月第一駐車場」から歩いても5分ほどでアクセス可能。

信教の自由が認められた明治22年(1891年)、パリ外国宣教会のビリオン神父が、長州出身の伊藤博文・井上馨を通じ、浦上信徒の牢屋だった旧岩国屋敷跡をキリシタン墓地として受けたもの。現在は公園となっており、自由に見学することができます。

多数のキリシタン墓

園内中央に立つのは十字架の乗った石碑。刻まれた「奉敬致死之信士於天主之尊前」の文字は、「信仰のために亡くなった信者は神の前に貴い」という意味であるそう。

立ち並ぶ多数の墓碑。この地は、かつて殉教者20名が埋葬されていた場所であったそう。

墓石には大きく十字架が刻まれているものも。十字架などを隠していた紫福地区のものとは異なり、わかりやすく記されているタイプ。年号を見るに、禁教令が解かれた後に建立されたものも多数存在しているようです。

江戸時代初期の事件

園内にそびえたつひときわ大きな石碑。こちらは江戸時代初期に発生した「五郎太石事件」に関連のある石碑です。

萩城の石垣築造に際して、石垣の間に詰める石「五郎太石(ごろたいし)」が盗まれるという事件が発生します。それを発端に、「益田元祥」「熊谷元直・天野元信」の間で争いが始まり、石垣築造工事が2ヶ月以上も遅延してしまいます。

毛利輝元は、非は「熊谷元直・天野元信」両氏にありとして、一族11人を粛清しました。両氏ともにキリシタン信者であったため、この事件を口実に滅ぼされたと考えらえれています。

この石碑は、宣教師ビリオンによって建てられた熊谷・天野らの殉教碑。この事件は毛利氏によって伏せられていましたが、当時の日本司教・セルケイラによってローマ教皇・クレメンス8世に送られた殉教報告書で明らかに。日本よりもヨーロッパで知られることになりました。


「氷責め」や「三尺牢」といった拷問の話が残っていた津和野に比べると生々しい話は少ないですが、それでも潜伏キリシタンにとって苦難の歴史があったことは感じられます。

なお、1873年に禁教令が解かれると、信徒たちは長崎への帰郷を許されます。長い旅を経て浦上の地に帰ることができた彼らは、浦上天主堂建設へと動くのでした。詳しくはこちらの記事にて。

長い旅から帰還した潜伏キリシタンたちの信仰の証『浦上天主堂』(長崎市)
多くの教会が登録され、話題となった世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。この浦上天主堂はそこには含まれていませんが、潜伏キリシタンの歴史を語る上で外すことのできない教会です。この教会を望んだのはどんな人々であったのか?造られた経緯は?この場所が選ばれた理由とは?知れば知るほど非常に大きな意味を持つ教会であることがわかってきます。

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