幕末期の造船所の構造を知ることができる貴重の遺跡であり、世界遺産にも指定された恵比寿ヶ鼻(えびすがはな)造船所跡。石造りの防波堤が現在も保存されており、その規模を感じることができます。ここで造られた船は、どんな船だったのでしょうか。
世界遺産の造船所跡
GWの山陰旅行、4日目は昨日の雨が嘘のような快晴です!ということで、朝イチに向かったのは恵比寿ヶ鼻造船所跡。

漁船が数隻泊まる港の端にあり、あたりには数人の釣り人がいるだけの静かな場所。実はここは幕末の造船所の跡であり、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」 の構成資産のひとつなのです。
同じく世界遺産になっている「大板山たたら製鉄所」で精製した鉄を使用して、ここで船を造っていたようです。自由に歩けるので、少し散策してみることにしました!
静かに残る石積み
現在も残っている石造防波堤。野面積の石垣は、近くで見るとなかなかの迫力です。

石垣の上は自由に歩くことができます。けっこう隙間があるので、躓かないように注意しながら進みます。朝イチなので訪れている人もほとんどいない静かな海辺。近くを走る鉄道の音、海鳥の鳴き声、そしてニワトリ小屋の騒音だけが鳴り響いています。

石垣のそばには広場があります。かつてはこの辺りに綱製作小屋や切組小屋といった施設が並んでいたようです。

市内中心部にある「明倫学舎」には見取り図が展示されていました。インパクトのある石垣の部分はあくまで防波堤であり、この広場の部分が造船所の中心のようです。

「明倫学舎」に展示されていた見取り図
建設までの経緯
江戸幕府は各藩の軍備や海防体制の強化を図るため、それまで施行されていた「大船建造禁止令」を撤回し、各藩に大型船の建造を奨励しました。安政元年(1854年)には、萩藩にも洋式船建造の要請が出されています。
翌安政2年(1855年)、桂小五郎(のちの木戸孝允)が軍艦建造の必要性を藩に提言。その意見を受け、翌年には藩主・毛利敬親が洋式軍艦の建造を正式に決定しました。
一方、幕府は安政3年(1856年)、伊豆国戸田村で西洋式帆船「君澤型スクーナー」の建造を進めます。萩藩は洋式造船技術や航海技術の習得を目的として、船大工棟梁の尾崎小右衛門を伊豆や江戸へ派遣しました。尾崎は、伊豆戸田村でスクーナー船建造に携わった高崎伝蔵らとともに萩へ戻り、沿岸部の調査を実施。その結果、萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻を軍艦製造所の建設地として選定し、洋式造船事業が本格的に始動することとなりました。
建造されたのはどんな船?
幕末っていったいどのような船を造っていたのでしょうか?まず最初に造られたのは全長25mのスクーナー船「丙辰丸(へいしんまる)」。安政3年(1856年)、萩藩最初の西洋式木造帆船として完成しました。伊豆戸田村で学んだロシア式の技術を生かして建造されておりますが、まだ試行錯誤の段階であり、技術習得の意味合いが強かったようです。

「萩博物館」に展示されていた模型
その翌年、恵比寿ヶ鼻造船所は一時閉鎖されるも万延元年(1860年)には2隻目の西洋式木造帆船「庚申丸(こうしんまる)」が建造されます。今度は長崎経由で移入したオランダ式の技術を取り入れて造られたそうです。2つの異なる造船術が一つの造船所で確認できる唯一の造船所として貴重な遺跡なのです。

「萩博物館」に展示されていた模型
なお、「庚申丸」は軍艦として配備され、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国が戦った「下関戦争」にも利用されます。外国船に対して砲撃するも、アメリカ艦「ワイオミング」の砲撃を受けて沈没。
その後に復旧され、「第二次長州征討」では門司を襲撃、さらに「戊辰戦争」では長州藩兵の輸送に活躍しました。
幕末の長州の動きに密接に関わる軍艦。この地で造られていたのかとイメージするとなんとも感慨深いですね!

アクセスと営業情報
| 見学時間 | 24時間 |
|---|---|
| 料金 | 無料 |
| 公式サイト | https://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h6078.html |
※掲載の情報は2026年5月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。


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