天下分け目の「関ヶ原の戦い」において、西軍で活躍した武将・大谷吉継。激戦の果てに自刃した彼の墓碑は、古戦場の中に建立されています。好きな武将なので、どうしても素通りできず立ち寄ってしまいました。
関ケ原に残る大谷吉継の墓
みなさん、好きな戦国武将いますか?
数多の武将、それぞれに魅力があり知れば知るほど難しくなってくるこの質問。「裏切り者」のレッテルを貼られた武将であっても、かつて領地であった国に行くと地域発展に貢献したヒーローだったりします。
私の好きな武将の一人が大谷吉継。豊臣秀吉のもとで活躍し、関ヶ原の戦いでは友人である石田三成との義を重んじて、勝ち目は薄いとわかっていても西軍として参戦。重い病を患いつつも、寝返った小早川秀秋軍相手に善戦し、最期は自害したと伝わっています。義理と友情を重んじたとされる武将なのです。
戦国をテーマにしたメディアでもかなり良く描かれていることが多く、もれなくイケメン。人気が高そうな印象なのですが、私以外に好きという方に出会ったことがありません。なぜだ。
さてさて、関ケ原町にはそんな大谷吉継の墓が建立されています。Google Mapでは入口がわかりにくいですが、近くに案内板を発見!ここから470mとのこと。路肩に車を停めて、中へ入っていきます。

実は私は人生2回目の一人旅の際にも立ち寄った思い出の地。その後も訪ねておりますが、今までは記事にしてませんでした。そんなわけで、懐かしさを噛み締めながらの訪問なのです。
木立の中を進む
木々の中の道へ。舗装されていない山道ですが、草は刈られて整備されているため歩きやすい。起伏もほとんどありません。

テープでつながる木々。治山のためだとは思いますが、なんだか結界に見えてしまいますね。

入口から歩くこと約8分で到着。木々が開けたスペースに、墓碑とベンチが設置されています。人影はなく、荘厳な空気を感じますね。

静かに鎮座する五輪塔
建てられた石碑に記されているのは大谷「吉隆」の文字。吉継は関ケ原合戦前に吉隆に改名していたという研究成果があり、それが採用されたそうです。

玉垣で囲まれた中には、五輪塔が建立されています。おそらくこちらが大谷吉継のお墓。備えられた多数の花から、大切にされていることが伝わってきます。

記されている辞世の句は「契あらば 六の巷に 待てしばし 遅れ先立つ ことはありとも」。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北する中、盟友・平塚為広の討死直前の手紙に返した歌で、「あの世でも縁があるならば、三途の川の先で待っていてくれ」という、深い友情と絆を伝える言葉です。
共に眠る湯浅五助
大谷吉継の墓の隣にある墓碑、そこには湯浅五助という人物の名が刻まれています。

関ヶ原の戦いにおいて、寝返った小早川秀秋を迎え撃つためわずか500の兵で15,000もの小早川軍を受け止めたとも言われる吉継。善戦むなしく壊滅し自刃を決意、その際に介錯を務めたのが家臣の湯浅五助でした。
戦場を離れて吉継の首を隠した五助は、直後に藤堂高虎の甥、高刑(たかのり)に出くわすも、「主君の首の在処を秘して欲しい」と頼みます。高刑はその約束を守り、徳川家康の詰問にも頑なに答えなかったそう。
五助の墓は、大正5年(1916年)に湯浅家の手により、吉継の墓に寄り添うように建立されました。300年の時を経て、やっと主君のもとへたどり着けたのですね。
讃えられる武士道精神
墓碑の側には大谷吉継顕彰碑も建てられています。

富国強兵を掲げた明治以降、関ヶ原の戦いは戦術・戦略研究の対象になり、古戦場では実際に軍事演習も行われたそう。
この顕彰碑は昭和15年(1940年)という戦時中、不破郡関ケ原町周辺の歴史的な古戦場や史跡の保存・顕彰を目的に活動していた組織「不破古跡保存会」によって建立されました。
時代背景を経て、主君・豊臣秀吉の恩に報い、親友の三成への義を貫き、劣勢にも関わらず奮戦して自刃した吉継を武士道の模範として称えるために建てられたそうです。
実際のところ大谷吉継に関する資料は少なく、関ヶ原の戦いのエピソードも江戸時代以降に脚色された部分は大きいかも知れません。それを考慮しても、私利私欲の強い戦国時代において、勇猛さや知略だけでなく義理や友情といった「人間味」で語られる武将はやっぱり魅力的ではないでしょうか。
余談ですが、戦国にまったく興味がないヲタ寄りな友人と関ヶ原を通りがかった際に、「興味ないと思うけど、もし時間あったら大谷吉継の墓に寄りたい」と伝えたところ、「え?推しの墓でしょ?もちろん良いよ!」と快諾してくれたことがありました。
結局そのときは行けなかったのですが、これって推し活あつかいなのでしょうか…?



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