一晩にして城を築くという「一夜城」。ここ墨俣(すのまた)城は、その代名詞とも呼べる城です。かつて豊臣秀吉が美濃攻略のために作ったという一夜城ですが、本当にそんなことが可能だったのでしょうか。
墨俣一夜城とは
織田信長の美濃攻略拠点として、かつて豊臣秀吉が一夜にして築城したという墨俣城。
当時の墨俣城は城郭ではなく砦のような城であったと伝えられていますが、その跡地に大垣城を真似た模擬天守を築いたのが、こちらの墨俣一夜城歴史資料館。長良川の支流である犀川沿いに建っており、「太閤出世橋」と名付けられた橋を渡って行きます。(※太閤=豊臣秀吉)
館内では、墨俣一夜城に関する展示に加えて、川に囲まれた墨俣の地形や自然なども紹介する博物館となっています。展示形態はパネルが中心で、なかなか読み応えがあります。
最上階からは、穏やかに流れる犀川(手前)と、長良川(奥)を見渡せます。高く積まれた土手では自動車が次々と走り抜けてゆきます。
秀吉の一夜城プロジェクト
古文書「前野文書(武功夜話)」に基づく、秀吉と一夜城築城に関する内容の映像作品を見ることができます。
織田信長にとって難関であった美濃の稲葉山城(岐阜城)。斎藤道三の孫である斎藤龍興には美濃統一の力が無いとよみ、美濃攻めを開始しました。しかし、西美濃三人衆や天然の要害に阻まれ難航します。
信長は、稲葉山城を落とすには墨俣を抑えることが重要と考えます。しかし、佐久間信盛や柴田勝家など、織田軍の名だたる武将が挑むも、尽く失敗。そこで木下藤吉郎(豊臣秀吉)に一任されることとなりました。
戦いの中で行われた築城
ここで重要なのが、墨俣一夜城はただの築城ではなく、戦闘を伴う築城であったということ。敵の攻撃がある中で、それを塞ぎつつ如何にスピーディーに構築するかがカギとなります。
まず、秀吉は人材を資材部隊と戦闘部隊の2グループに分け、それぞれ任務を割り当てました。さらに、行商人や山伏に変装した乱破(忍者)を敵の城下町に潜入させ、情報操作も行います。
さらに、木材はあらかじめ加工を済ませておき現地では組み立てに専念する、現代でいうプレハブ工法も用いられました。
各地に蓄えた城材、資材、人馬を夜のうちに一気に墨俣へ集めます。そのまま夜を徹して築城開始、敵の弓矢や鉄砲の攻撃を受けながらも翌日の夕方には馬柵とやぐらを完成させました。
一夜城の効果は
斎藤軍からの攻撃は続くも、これを撃退。2日後には織田信長が入城します。
その後は、満を持して稲葉山城攻めが開始されます。3日間の交戦の末、城主の斎藤龍興は逃亡。信長は稲葉山城に入城し、ここを「岐阜」と改めました。
実際に資料館の最上階に立ってみると、稲葉山城こと岐阜城が遠くにくっきりと見えます。
ここを抑えれば敵の動きが見えるし、いつでも攻めかかることが可能。「墨俣を抑えれば、稲葉山城の喉元に刃物を突きつけたも同然」というコトバを実感できます。
ひょうたんがたくさん
さて、気になるのがお城のまわりで見かけるひょうたん。大小様々なオブジェが並んでおり、どことなくユーモラスな雰囲気。
この墨俣一夜城は、後に天下をとる豊臣秀吉の出世のきっかけになった業績。秀吉の馬印(トレードマーク)でもあるひょうたんには、出世のご利益があると考えられています。
吊るされたたくさんのひょうたんは、「願かけ出世ひょうたん」。絵馬のように願い事が書かれています。10月に行われる「すのまた秀吉出世祭り」では、このひょうたんを炎にくべて、願い事の成就を祈るそうです。
アクセスと営業情報
墨俣一夜城があるのは岐阜県大垣市。岐阜城と大垣城の間に位置しているので、3城巡りしてみるのも面白いです。
電車の場合は、大垣駅、もしくは岐阜駅からバスで向かうのが一般的。大垣駅から約20分、JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から約30分ほどのバス停《墨俣》下車後、徒歩15分ほどです。
車の場合は名神高速道路の岐阜羽島ICから約20分。ETC車の場合は安八ICから約15分ほど。天守の目の前に無料駐車場がありますが5台ほどしか停められません。
満車の場合は「さい川さくら公園の駐車場」か、少しわかりにくいですが「墨俣町観光客用駐車場」に無料で停めることが可能。どちらもGoogle Mapで表示されます。
休館日:月曜、年末年始
料金:200 円
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