150日の芭蕉の旅のゴール地点『奥の細道むすびの地記念館』(大垣市)

岐阜県

松尾芭蕉が記した紀行「奥の細道」。東北や北陸をめぐる2,400kmの旅の終着は岐阜県大垣市でした。それを記念したミュージアムがこちらの施設。展示物の難易度は少々高めなので、少し下調べしてから訪問するのがおすすめです。

※正確な表記は「おくのほそ道」のようですが、この記事では施設名に合わせて「奥の細道」と記載しております。

2020/11/23(月)

芭蕉のミュージアム

言わずと知れた俳諧師・松尾芭蕉。「奥の細道」で日本各地を旅した芭蕉は、むすびの地として大垣に立ち寄ります。

奥の細道むすびの地記念館は、そんな芭蕉の人物像や旅の行程に焦点をあてた博物館で、大垣市制90周年を記念して造られました。原文解説や3Dシアターなどのコンテンツが並び、奥の細道の世界に浸ることができます。江戸時代の旅装束や、歌に詠まれた場所の模型などもあります。

基本的にある程度知識がある人向けといった感じの内容なので、何も知らずに入ってしまうと、苦戦するかもしれません。また、写真撮影も禁止です。

奥の細道とは

1702年に松尾芭蕉が刊行した旅行記。「月日は百代の過客にして・・・」というはじまりのコトバは、耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。東北、北陸、中部地方をめぐる2,400kmに渡る長い道のりを、約5ヶ月かけて旅した様子が記されています。

江戸の深川にあった芭蕉庵を出発した芭蕉は、門人の河合曾良(かわいそら)を連れて北上していきます。
栃木県の日光・那須、福島県の郡山・二本松、宮城県の白石・松島、岩手県の平泉、秋田県の象潟、山形県の酒田と東北をめぐり、日本海側の新潟県へ。
親不知を超えると、富山、石川、福井をめぐり、滋賀県の長浜を超えて岐阜県へとたどり着きます。

なぜ大垣が最後の地?

各地をめぐった長い旅も、ここ大垣が最後の場所となりました。

気になるのは、なぜ大垣を選んだのか。
東西南北の中心である点に加えて、この地には芭蕉を理解する優秀な門徒がたくさんいました。以前の旅である「野ざらし紀行」の際、この地で暖かく迎えられたこともあり、芭蕉にとっては思い出深い土地だったのではないでしょうか。

また、芭蕉が旅立ちの前に友人に宛てた手紙には、「美濃へ行く」と記されていたそう。かなり遠回りではありますが、最初から美濃(岐阜県南部)がゴールと決まっていた可能性が高いです。

なお、奥の細道は大垣で終わりますが、芭蕉の旅はその後も少し続きます。伊勢神宮へ参拝し、伊賀を経由、京都・近江と立ち寄り江戸まで帰ります。

ミニ奥の細道

大垣市内には、奥の細道で読まれた芭蕉の句碑が並ぶ「ミニ奥の細道」が作られています。

大垣駅前南口を東に進んだところにある愛宕神社付近がスタート地点。約2.2kmと、本来の行程の約1/1000というお手軽コースで、むすびの地記念館の前でちょうどゴールを迎えます。大垣駅から記念館へ向かう方は、バスを利用せずにあえて徒歩で向かうと、奥の細道の気分を満喫できるのではないでしょうか。

それぞれの句碑には、その句が詠まれた場所の解説も記載されています。めぐっていると、日本各地を旅しているような気持ちになれそうです。

飛び交う様々なウワサ

さて、この奥の細道ですが、様々な逸話が残っています。中でも特に有名なのは「芭蕉忍者説」

この説のもととなったのは、その移動スピード。単純計算で1日あたり16km(2400キロ÷150日)。各地での滞在していた期間もあるため、実際にはもっと多くの距離を進んでいたことになります。

奥の細道に旅立った芭蕉は当時45歳。平均寿命が32~44歳くらいといわれていた江戸時代において、晩年であったはず。これだけの運動能力があるのは、ただの俳諧師としては非常に違和感。日頃から何かトレーニングをしていたのではないかと考えられています。また、芭蕉の出身が伊賀というのも後押しとなっています。

移動距離以外にも、「資金はどうしたのか」「江戸時代は自由に旅行できないのになぜこんなに国をまたいで自由な旅ができたのか」など、不思議な点は多いです。

実際のところ奥の細道はただの旅日記ではなく、入念に推敲がなされている作品。かなり脚色しているという見解も多いため、真実ではない部分も多い可能性があります。

アクセスと営業情報

JR大垣駅から徒歩16分、バスを利用すれば約7分ほどです。
車の場合は、名神高速道路の大垣ICから車で20分、東海環状自動車道の大垣西ICから車で10分ほど。

開館時間:9:00~17:00
休館日:年末年始
料金:300円
公式サイト:https://www.ogakikanko.jp/spot/kinenkan/

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