一国一城令を回避できたのはなぜ?『八代城跡』(八代市)

熊本県

熊本県の八代に残る八代城跡。八代宮という神社の境内地であり、立派な石垣の上を歩いてめぐることができます。そんな八代城、かつて一国一城令が施行された際、熊本城とともに2つ目の城として許可されていました。いったいどのような理由があったのでしょうか。

訪問日:2023/11/5(日) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

八代城のヒストリー

熊本県八代市に残る八代城跡。松江という地に建てられていることから、「松江城」とも呼ばれています。

もともとは麦島城という城がありましたが、大地震によって倒壊。それに代わる城として築かれました。築城主は加藤正方。肥後国隈本藩の第2代藩主・加藤忠広の命を受けて、1622年に竣工しました。

1632年に加藤忠広が改易に、加藤正方も城を去ることになります。同年、細川忠利が熊本藩に移封となると、その父である細川忠興が八代城に入城。その後は、細川家の筆頭家老である松井興長が城主に。以後、松井氏の居城として利用されていきます。

明治時代に入り廃城令が施行されると、他の多くの城と同じく八代城も廃城に。建物は大書院を除いて取り壊しになりました。その後は八代宮の境内地となり、現在は公園として整備され自由に見学可能。再現建築はありませんが、石垣をはじめとした遺構を見ることができます。

本丸への入り口は西側・北側・南側と三ヶ所あります。今回は正門といわれる西側から入ってみることにしました。

正門である西側から入城

本丸まではお堀に橋が架けられています。かつては木造の太鼓橋である欄干橋が架かっていましたが、現在は築城400記念につくられた石造りの橋となっています。

橋を渡った先は高麗門跡。かつてここに建っていた門は、本町一丁目の本成寺というお寺に移築されているそうです。この辺りの石垣の石は、他の部分よりも大きい石が使用されています。お城の顔であるためより立派な石を使って、その価値を高めたと考えられています。

その先へ進むと枡形虎口(ますがたこぐち)。立派な石垣に囲まれたスペースは、お城を攻める敵が門から侵入してきても、ここで袋叩きにするという防衛システム。

本丸跡に鎮座する八代宮

この本丸の中心には懐良親王(かねよししんのう)を主祭神とする八代宮(やつしろぐう)という神社が建立されています。懐良親王は後醍醐天皇の皇子であり、九州における南朝方の征西将軍として、北朝方の豪族と戦った人物。八代市内には墓所もあります。

巨大な石をくり抜いた手水。この水は球磨川の伏流水を汲み上げたものであるそう。こんこんと水が湧く様子は、さすが水の国くまもとです。

境内社である靈社。太平洋戦争の戦没者の慰霊のために建立され、3914柱の英霊を祀っています。

靈社のそばには、本丸の井戸跡も。直径は1mほど。中を覗いてみましたが、水は蓄えられていませんでした。

ぐるっと歩ける石垣の上

靈社のそばの階段を上ると、そこは月見櫓跡。石のベンチが置かれており、非常に眺めの良い場所。城の南側に広がる街並みや、八代宮に参拝に訪れる人々を眺めることができます。

この月見櫓から先も石垣の上は整備されており、ぐるっと歩くことができます。植えられているのはおそらくサクラ。きっと春にはきれいな花を咲かせることでしょう。

下から見ると、こんな感じの石垣を歩いています。石垣の高さは約8m。数字だけ見るとそれほど高くは感じませんが、柵もなく開放的な石垣であり、歩いているととても心地よいです。

連結式天守閣の跡

石垣の先にあるのが小天守跡。高さ9.7m、2層3階の小天守がそびえていた場所です。まるで渓谷のように切り立つ石垣、柵などはありませんので落ちないようにご注意を。

小天守跡のすぐ先にあるのが大天守跡。かつてここには高さ11m、4層5階の大天守がそびえており、小天守とは渡櫓で連結していたそうです。

石垣を降りて大天守跡を下から見ると、ずっしりとした石垣がかなりの迫力です。

そんな天守閣ですが、1672年の落雷によって焼失、それ以降は再建されなかったとのこと。いったいなぜでしょうか・・・?

理由はいくつかあると思いますが、乱世が終わり泰平の世が訪れたという時代背景が考えられます。お城に軍事的な役割が必要とされなくなったため、天守閣の存在意義が薄まったのではないでしょうか。

また、もう一つ頭に浮かぶのが江戸幕府への配慮。幕府の中心である江戸城では、1657の明暦の大火で天守が焼失後、再建されることがありませんでした。これ以降、全国各地のお城では天守の造営を取りやめにするという例がいくつか挙がっています。八代城も同じように遠慮したのではないでしょうか。(※江戸城で天守が再建されたなかったことについてはコチラの記事にて)

特別扱いだったお城

ここで気になるのが江戸幕府が制定した「一国一城令」。大名の軍事力を削り、争いを減らすといった目的のもと、1つの国にお城は1つまでと定められました。これが施行されたのが大坂夏の陣の直後である1615年。八代城が竣工したのは1622年なので、この一国一城令の後に建てられていることになります。

肥後国には、今でも全国的に知られる「熊本城」という立派な城郭がそびえています。この八代城があるのも肥後国。一国一城令施行後であるにも関わらず、なぜ2つ目の城が許されたのでしょうか。

その理由は諸説ありすが、有力な説は、薩摩藩や人吉藩への供え。強い力を持つ大名に対して、有事の際の防衛を想定していたという考えです。また、キリシタンや異国船を意識していたという説もあるようです。

他にも、この法令には「大名の家臣でも特に幕府に対して功績があった者の子孫の居城は廃城の対象外とされた」という例外があります。この八代城も、その例外として認められたのかもしれません。

そんな八代城跡ですが、「八代市立博物館未来の森ミュージアム」では、再現模型が展示されているそうです。八代城跡から100mほどとすぐ近くにあるので、行ってみることにしました。

ということで、次回はこちらのミュージアムについて書かせていただきます~。

アクセスと駐車場情報

JR・肥薩おれんじ鉄道の八代駅より約2km、バスに乗れば約15分ほどでアクセスできます。

車の場合は九州自動車道の八代ICから約15分。駐車場はお城の西側に「八代城跡公園駐車場」という無料駐車場を備えています。

現地の案内板によると、この駐車場は午前6時から午前8時30分まで閉鎖しているそうです。朝の2時間30分だけ閉鎖というのも少し変な感じです。「午後6時~午前8時30分で夜間閉鎖の間違いでは?」とも思ったのですが、朝に何か利用があるのかもしれませんね。

なお、駐車場から進むと西側の正門から入ることができますが、実は南側の方が八代宮の鳥居もありお城の解説が記された案内板もあったりと、「入口らしさ」が詰まっています。特にこだわりが無い場合は南側から入るのがおすすめです。

※掲載の情報は2023年11月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。

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