空港の見方が変わるミュージアム『成田空港 空と大地の歴史館』(芝山町)

千葉県

成田空港開設にあたり勃発した成田闘争の歴史を現代に伝える博物館。成田空港を利用したことがある人には、ぜひ足を運んで体験してほしい場所です。

訪問日:2024/2/23(金) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

影の歴史を伝える博物館

1966年7月4日に建設されることになった成田空港。地域を守るために反対した農民や支援者、一方では日本のために必死で空港をつくろうとした人々など様々な思いが詰まっている空港なのです。

この空と大地の歴史館は、そんな歴史的経緯を学ぶことができるミュージアム。航空科学博物館と同じ敷地内に建てられています。

お子様連れでにぎわう航空科学館とは対照的に、こちらは非常に静かな博物館。館内では写真やパネル、さらには闘争の歴史を今に伝える様々なものが展示されています。

いずれもわかりやすく工夫されているため、全く知識がない状態でも大丈夫。Wikipediaに書かれた事件などをついつい読み込んでしまった経験がある方は、きっと想像以上に楽しめるハズです。

突如決まった空港建設

成田空港のある土地は、もともとは羊や馬が放牧されるのどかな牧場「下総御料牧場」や県有地、そのまわりには数百年の歴史を持つ古い村や、苦労の末に戦後開拓された村などが広がっていました。

日本経済の発展が進むと、羽田空港に限界が訪れます。当時の技術では埋め立てによる拡張は困難、羽田空港に代わる新空港が必要という状況に。当初は八街や富里といった千葉県の土地が建設候補地とされましたが、激しい反対運動が発生します。

そんな中、政府は急転直下で「成田三里塚」を建設地に決定。国有地である下総御料牧場や県有地を活用でき、さらに戦後開拓による土地ならば在住歴も浅く、用地買収がスムーズに進むのではという考えでした。地元への影響を最小限にするため、当時としては異例なほど地元住民への対策が取られたそうです。

しかし、充分な説明もないまま進められた決定であったため、やはり反対運動が勃発。社会党、共産党、労働組合などの支援のもと三里塚芝山連合空港反対同盟が結成されました。

一方、条件付きで賛成する団体も。地元住民同士の対立も発生、空港賛成者は村八分状態にされたという悲しい歴史もあったようです。

初期の反対運動

空港設立のために新東京国際空港公団が編成され、用地取得などの動きがはじまります。反対同盟は、高いやぐらにドラム缶を取り付けた団結やぐらを建設。公団員を見つけると打ち鳴らして包囲、集落へ入るのを防ぎ用地買収を阻止します。

さらに「一木運動」という運動も。用地内の木を一本ずつ売買契約することで、合法的に用地取得を困難に。木には所有者の名前を記していました。

やがて、一木運動は「一坪共有地運動」へ発展。わずかな面積の土地を多数の人の共有と登記することで、用地取得を困難にするという運動で、一時期は1,200人もの人が参加したそうです。

闘争の過激化

1967年10月10日、国・公団は2,000人の機動隊とともに杭打ちを行います。この突然の実力行使で反対運動は鎮圧されたかに見えましたが、逆に力で対抗するという決意を固めさせることに繋がり、闘争は武力衝突へ発展。公団は機動隊を引き連れ、反対派は全学連とともに戦い続けることになり、結果的に過激化させる原因となりました。

やがて、土地収用法に基づく強制的な収用「代執行」が行われます。反対派は農地死守のための砦を作ったり、糞尿弾を投げたり、自らの体を縛り付けたりして、必死な抵抗が繰り広げられます。

館内のモニターでは、その代執行の激しい戦いの様子を見ることができます。警察官にも殉職者が出るほど激しい戦いの末、公団側は1期工事の用地取得を完了。

反対派は航空妨害のための鉄塔「岩山大鉄塔」を建設。闘争のシンボルとなるも、大型クレーンであっけなく倒されてしまいます。

予定よりも6年遅れ、1978年3月26日、ついに成田空港の開港が決まります。しかし、そこで管制塔襲撃事件が発生。管制塔に侵入した反対派によって機器は破壊され、多数の人々が空港に侵入して騒乱となります。この結果、開港は延期となりました。

各集落の要所に配置されていたというドラム缶。緊急時には叩いて仲間に知らせていました。

開港と話し合いによる解決

1978年5月20日、ついに成田空港が開港。開港翌日、最初の飛行機がアメリカから到着、2日目には旅客1番機がフランクフルトから到着、3日目にはソウルに向けて1番機が出発しました。

開港後も闘争は終わらず、反対派の抵抗は続きます。マイクロ回線ケーブルが切断されたり、風船やアドバルーンで飛行妨害が行われたりと、様々な運動が続けられました。前述の管制塔襲撃による開港延期に衝撃を受けた財界はじめ関係者は、話し合いによる収拾をめざして動きはじめます。

1991年からは成田シンポジウムが開催され、以下の3つの提案がなされます。

①国側は、土地収用裁決申請を取り下げる
②二基工事のB・C滑走路計画を白紙にもどし、地域の人々と話し合いをする事により解決の道を探る。
③地域における空港の在り方などについて新しい話し合いの場をつくる

さらに1993年からは円卓会議も開催。政府からの謝罪も行われました。これですべてが解決したわけではありませんが、大規模な闘争は収束へと向かいます。

空港用地となった集落「木の根」から移転を決めた高橋とりさんが、押し入れに保管していたという空港反対の鉢巻をした木の根の土。自分の土地を追われるというのはどういった気持ちだったのか、それが自分たちで開拓した土地であり、なおかつ強権的に追い出されるというのはどれほど辛い思いだったのか。

今では当たり前に利用されている成田空港に詰まった歴史が凝縮された空間、お近くにお越しの際はぜひぜひ立ち寄って体験してみてください。

アクセスと営業情報

成田空港第1ターミナル、および第2ターミナルよりバスで10分ほど。

開館時間 10:00~17:00
休館日 月曜(祝日の場合は翌日)
料金 無料
公式サイト https://www.rekishidensho.jp/

※掲載の情報は2024年2月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。

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