俳人として知られる正岡子規という人物について深く知ることができるミュージアム。俳句についての知識はなくとも、歴史が好きな方でしたらそれなりに楽しめる内容となっています。愚陀仏庵に腰かけていると、子規や夏目漱石の 息遣いが聴こえてきます。
道後温泉の博物館
1981年にオープンした松山市立子規記念博物館。松山出身の俳人として知られる正岡子規の世界を通して、松山の文化や文学についての理解を深める博物館として建てられました。
松山市の中心部から少し離れた道後公園内にあります。道後温泉駅のすぐ近くなので、温泉街の散策ついでにふらっと立ち寄りやす場所です。
なお、私は俳句についてほぼ知識がありません。正岡子規についても江川達也の漫画「日露戦争物語」で少しそのキャラクターにふれたことがある程度。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」くらいは耳にしたことがありますが、この程度の知識で楽しめるのでしょうか・・・?
工夫が光る展示
パネル展示がメインですが、それぞれ読みやすいボリューム。途中には映像コンテンツが流れるモニターも何ヶ所かありますが、いずれも短くコンパクトにまとめられています。
持ち帰り可能な解説シートも多数設置されています。展示室内での写真撮影は禁止ですが、このシートに写真やイラスト付きで内容がわかりやすく記されているので内容を記憶に止めやすい!
現代的なミュージアムに比べるとカジュアルさは少なく展示内容はちょっと難しめ。しかし、とっつきやすいような工夫がなされています。
道後・松山の歴史
まずは愛媛県の歴史からスタート。神話の世界から、松山や道後温泉の発展など、ちょっとした雑学が詰まった展示が広がります。
古事記の国産み神話によると、日本列島において淡路島の次につくられたのが伊予之二名島(四国)。さらに、四国は2組の男女に例えられており、伊予国は愛比売(エヒメ)、讃岐国は飯依比古(イイヨリヒコ)、阿波国は大宜都比売(オオゲツヒメ)、土佐国は健依別(タケヨリワケ)と名付けられていたそう。愛媛県の「えひめ」という名前もここから来ているそうです。
他にも、道後温泉に関する展示も豊富。開湯伝説や、訪れた万葉の歌人、江戸時代の様子を描いた絵図など、ちょっとだけ道後温泉に詳しくなれる内容です。
このあたりは正岡子規を知らずとも楽しめる、普通の歴史博物館です。
正岡子規のストーリー
さて、いよいよ展示は本編となる正岡子規の生涯へ。近代文学に多大な影響を与えた俳人・正岡子規は、1867年に松山藩に仕える武士の家系に生まれます。
16歳にして上京。当初は政治家を志していましたが、文学へ興味を深め文人としての道を進んで行きます。同窓生には夏目漱石や南方熊楠、さらに同郷の秋山真之もおり、交流を深めていたそうです
その後、硬派な新聞社である「日本新聞社」にて新聞記者となり、連載を通して俳句の革新運動を開始。さらに、日清戦争が勃発すると従軍記者として遼東半島へ同行。その後も創作活動を続け、句会や歌会を開催し文学活動を続けていきます。
しかし、子規は当時の日本において不治の病であった結核を患っていました。残された時間が短いことを知りながらも、療養生活の中で多くの句を発表。1902年、34歳という若さでこの世を去ります。
正岡子規という人物を全く知らなくても、展示を見て行くとどういう人なのかがわかるようになっています。
真面目な生涯に関する展示の合間には、ときおりちょっとしたエピソードも。子規は学生時代、アメリカから渡ってきたベースボールに夢中になっていたそう。それに関連する記載は作品にも多く登場します。また、「打者」「走者」「四球」などは子規が日本語に訳したといわれています。
よみがえる愚陀佛庵
館内にあるこちらの家屋は愚陀佛庵(ぐだぶつあん)。松山に英語教師として赴任していた夏目漱石が暮らしていた住宅です。
日清戦争へと同行した子規は、その帰路に病が重体となり神戸を経て松山へと帰郷します。漱石とは旧知の仲であったことから、子規はこの家に居候。療養しながら漱石とともに句を詠んでいたそうです。
愚陀仏庵は中に入ることもできます。お座布団に座ってふぅと一息ついていると、2階から夏目漱石のひとりごとが聴こえてきました・・・!
かつては復元されたものが萬翠荘の敷地内に建てられていましたが、そちらも土砂災害によって倒壊してしまいました。
アクセスと営業情報
伊予鉄道城南線の道後温泉駅から徒歩5分、もしくは1駅手前の道後公園停留場からも同じく徒歩5分ほど。
開館時間 | 5~10月:9:00~18:00 11~4月:9:00~17:00 |
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料金 | 400円 |
公式サイト | https://shiki-museum.com/ |
※掲載の情報は2021年12月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。
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