迫力の連立天守と天高くそびえる石垣『伊予松山城』(松山市)

愛媛県

市街地を見下ろす城山に建つ平山城。重厚な石垣や次々と現れる城郭建築、さらには櫓が取り囲む連立天守と見どころが非常に多い城郭です。ただ順路にそって進んで行くだけでも、まるで要塞の中を探検しているような気持ちで楽しめます。

訪問日:2021/12/9(木)

選べるロープウェイorリフト

松山城は標高132mの勝山(城山)山頂にあります。徒歩で向かうと麓から20~30分ほどかかりますが、観光用にロープウェイリフトが設置されています。

この2つは同じコースを運行しており、料金も一緒。所要時間は【ロープウェイ3分/リフト6分】と少しだけ差がありますが、運行間隔は【ロープウェイ10分毎/リフト随時】となっているため、トータルで考えるとほとんど差はなさそうです。

今回はちょうど発車時刻だったのでロープウェイに乗車することにしました。定員は20名の小型ゴンドラなので、列ができることも。チケットはロープウェイ・リフト共用なので、混雑状況を見て乗り場ぎりぎりで判断するのもありです。

乗車時間はわずか3分。あっという間に終点の長者ヶ平駅に到着しました。ここから天守入口までは徒歩10分ほどかかります。

防御力抜群な城郭建築

すぐに目に入るのはそびえ立つ石垣。まるで壁のように垂直にそびえる姿は、非常に圧迫感があります。高さは17mで、松山城で最も高い石垣だそう。

「石垣を登らないでください」との注意書きがありますが、登った人なんているのでしょうか・・・そう思っていたら、どうやら秋山真之が登ったことがあるらしい!さすが松山のガキ大将です。(※秋山真之=日露戦争時の日本海海戦において日本軍に勝利をもたらした海軍参謀。「坂の上の雲」の主人公です。)

復元された城郭建築が石垣の上にぴったりと建っています。もうこの時点でかなりわくわくしてきました。

しばらく進んで行くと、重厚な筒井門が見えてきます。ここを抜けると、天守閣のある本丸広場へと繋がっていきます。

筒井門をくぐる前に向かって右へ進むと、隣に小さな門の姿が。こちらは隠門(かくしもん)といい、正面の筒井門に押し寄せた敵を横から攻撃するためのシークレットゲート。

さらに筒井門を抜けると目の前には太鼓櫓がそびえます。仮に門を突破することができても、ここから狙撃されてしまうのです。

巨大な石垣はもちろん、曲がりくねった通路や門と櫓の組み合わせなど、とにかく防御力の高さを実感させられます。

迫力の連立天守

お土産屋さんや休憩所のある本丸広場を進むと見えてくる天守閣

大天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓と4つの建物が連なるように造られており、「連立式天守」と呼ばれています。ずらりと並ぶ城郭建築は圧巻で、真下から見上げると取り囲まれているような気持ちです。

国内には数多くの城がありますが、江戸時代以前に造られた天守は、この松山城を含めてわずか12ヶ所。これらの天守は「現存十二天守」と呼ばれております。その中でも連立式天守のお城は姫路城と松山城だけなのです。

連立天守のうち、大天守以外の3棟は1968年に復元されたもの。とはいえ、図面などの資料が残っていたため、大天守と並んでも遜色ないレベルでかなり正確に復元されています。

天守閣の内部

ここまでは無料でしたが、天守閣の内部は有料。受付を済ませたあとは靴を脱いで入城します。お城の内部では歴代城主や天守閣の歴史などがパネルでわかりやすく展示されてます。

もはやハシゴと呼んでも良いレベルの急勾配な階段も出現します!現代の建築では見かけないような険しさは、現存天守ならでは。

大天守の最上階からは連なる連立天守、松山市街地、そして瀬戸内海までぐるりと見渡せます。窓ガラスなどもなく吹き抜けなので、天気が良い日は最高です。

目線を下にやると、天守への道を取り囲むように櫓が建てられています。万が一ここまで敵が登ってきたとしても「袋の鼠」状態。この松山城を力で攻め落とすのはほぼ不可能なのでは、と思えてきました。

加藤嘉明と松山城ヒストリー

次々あらわれる城郭建築に、ただ歩いているだけでも胸ドキが止まらない松山城。せっかくなので築城主や歴史についてもう少しだけ調べてみました!

松山城の築城主は加藤嘉明(かとうよしあき)という戦国大名。

1583年に、羽柴秀吉vs柴田勝家の争いである「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」が勃発。本能寺の変で撃たれた織田信長の後継者争いともいえるこの戦い、最終的には秀吉の勝利に終わります。そのとき武功を挙げた7人の武将を「賤ヶ岳の七本槍」と呼びますが、嘉明もその一人。その後も武功をあげ、淡路国志知城主を経て伊予国へ。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功績によって石高を加増された嘉明は、1602年より松山城の築城にとりかかります。このときに松山という地名も生まれました。

「賤ケ岳の七本槍」は加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元の7人。「賤ケ岳の戦い」ではこの7人以外にも石田三成や大谷吉継といった若手武将が活躍し、次々と出世していきました。秀吉没後におこった「関ヶ原の戦い」では秀吉子飼いの武将たちは、それぞれ東軍・西軍に別れて激しい戦いを繰り広げて行きます。

慎重に工事を進めた嘉明ですが、完成間近となった1627年に会津へ移封になってしまいます。そんな嘉明に代わり入城したのが蒲生氏郷の孫である蒲生忠知。しかし、忠知がこの世を去ると、世継ぎがいなかったため蒲生家は断絶。

その後、徳川家康の異父弟・松平定勝の次男である松平定行が入城、天守を五重から三重へと縮小させます。落雷で焼失するも復元させ、以後、幕末を迎えるまで14代に渡り松平家がこの地を治めて行きます。

明治以降は火災や廃城令、空襲などにより多くの建築が失われていきますが、奇跡的に大天守は江戸時代の姿を保つことができたのでした。

アクセスと営業情報

ロープウェイ&リフト乗り場となる東雲口駅は、伊予鉄環状線の「大街道」停車場から徒歩5分。

天守開館時間 9:00~17:00 ※季節によって変動あり
料金 520円
公式サイト https://www.matsuyamajo.jp/

ロープウェイ&徒歩移動があるため、天守の開館時間だけを見ていると入場できない、なんてことになるかもしれません。遅くとも天守終了時間の50分前までにロープウェイに乗るのが目安とのことです。

※掲載の情報は2021年12月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。

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