港で自転車を借りたら島内観光に出発!明屋海岸、隠岐神社、後鳥羽院資料館、村上家資料館と中ノ島を代表するスポットをめぐります。島をめぐる上で知ってるとより楽しめる、「流刑地としての海士」についてもさらっとまとめてみました。
島内観光は自転車がおすすめ
西ノ島から島前内航船にて8:30に到着した中ノ島(海士町)。8:40の「あまんぼう」に乗船するまでが前回のお話。
この後は12:50の船で島後へ向かうため、3時間ほど島内観光の時間があります。ということで、港の観光協会にてレンタサイクルを借りることにしました!
ここではシティサイクル(ママチャリ)、電動アシスト自転車、E-bikeの3種類の自転車を借りることができます。本当は電動アシスト自転車にしたかったのですが、既に満車とのことで普通のシティサイクルに。
この自転車だと隠岐神社周辺くらいまでしか行けないかなと思ったのですが、島内にそれほど起伏は無いので3時間あれば明屋海岸まで行けるとのこと。
ということで、まずはいちばん遠い明屋海岸へ向かい、帰りに隠岐神社と後鳥羽院資料館などをめぐるコースで行きます!
島内の移動手段についてはコチラの記事にまとめてます。
①明屋海岸
明屋海岸(あきやかいがん)は菱浦港から普通の自転車で40分ほど。知夫里島や西ノ島に比べたらそれほど起伏の無いルートですが、それなりに距離があります。特に集落から離れる終盤はそれなりに起伏があるので要注意。
海辺へと続く長い下り坂の先には広い駐車場。そこから階段を降りて行くと、青い海が広がる明屋海岸へと続きます。
遊歩道が途中まで伸びているため、これくらいまで近づくことができます。約280万年前の火山活動によって生まれた地形で、赤い崖は迫力満点!青い海と空、緑の植物とのコントラストがとってもあざやかです。
また、海に浮かぶ屏風岩をよく見るとハート型の穴が空いています!見る角度によって形が変わるので、写真を撮る際はキレイなハート型になるようにいろいろ試してみるのが良さそうです。
ここからは来た道を戻りながら、ルート上の観光スポットへと立ち寄って行きます。
②隠岐神社
明屋海岸自転車で約25分ほどで隠岐神社に到着しました。
この神社、てっきり長い歴史を持つのかと思いきや、実は比較的新しい神社。神武天皇即位2600年を祝った1940年の「紀元二千六百年記念行事」にて創建されました。神社が完成したのは前年の1939年であり、この年は後鳥羽天皇の崩御700年でもあったそうです。
この島に配流された後鳥羽上皇は、出家して源福寺というお寺で暮らしていました。このお寺は明治時代の廃仏毀釈によって壊されてしまいます。その源福寺跡地がこちらの行在所跡(あんざいしょあと)。ちなみに源福寺は復興されて、神社のすぐ近くに建っています。
境内を進んで行くと見えてくるのが後鳥羽天皇御火葬塚。何となく漢字の並びが示す通り、ここは後鳥羽天皇の山稜。崩御された後に京都へご遺骨を納めるために火葬されましたが、ここにはその一部が納められています。
③後鳥羽院資料館
隠岐神社と道路を挟んで向かいにあるのが後鳥羽院資料館。後鳥羽天皇ゆかりの品々などを中心に、考古資料や民俗資料など貴重な資料が展示されています。
まずは江戸時代に描かれた絵で、かつての隠岐神社周辺について案内してもらえます。といっても、前述の通りまだ隠岐神社はなく、源福寺の伽藍が広がっています。
展示室は残念ながら撮影禁止。ずらりと並んだ「隠岐神社奉納刀」や、ひらがなやイラストで非常に見やすい巻物「蹴鞠記」など、隠岐神社・後鳥羽上皇に関わる史料が並びます。後鳥羽上皇の遺言状にあたる「後鳥羽天皇御手印置文」では、自分の最期が近いことを悟った後鳥羽上皇が寵臣へ向けた感謝の気持ちなどが綴られています。歴史上の遠い人物だと思っていましたが、その人柄にふれると少し距離が近くなったように感じました。
展示物の解説は少なめなので、ちょっとだけとっつきにくいかもしれませんが、じっくり読んでいくといろいろと気付かされます。
後鳥羽院資料館の隣には、「つなかけ」というお土産屋さんがあります。焼き立てパンや島の名産品を販売しているので、ひと休みにもおすすめ。
④村上家資料館
後鳥羽院資料館・隠岐神社からすぐ近くにあるのが村上家資料館。後鳥羽院資料館との共通券もあります。
後鳥羽上皇の世話をしたと伝えられているのが、海士の有力者であった村上家。この資料館では、そんな村上家に伝わる古文書や資料が展示されており、畳敷きの屋敷内を自由に歩いて見学できます。
館内にはわかりやすい解説が書かれた案内もあります。さらに釘隠しの飾りや透彫欄間など、各所で見られる意匠や工夫が記された「村上家のひみつ」を記したカードも。これがとてもわかりやすく書かれており、宝探し気分で楽しく見学することができました。
流刑地としての海士
さて、隠岐神社、後鳥羽院資料館、村上家資料館と配流された後鳥羽上皇に関連するスポットを紹介してきましたが、このあたりで少し流刑についてふれてみたいと思います。
後鳥羽上皇はなぜ流刑にあったのか
そもそも、上皇という立場の人物がいったいどのような罪を犯したのでしょうか。
後鳥羽上皇は武家による政治を行う鎌倉幕府に対し、天皇中心の政治を取り戻すべく鎌倉幕府の第2代執権である北条義時に対して討伐の兵をあげます。これが1221年に起こった承久の乱。
御家人の結束は強く、結果として上皇方の敗北に終わります。首謀者であった後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡島、実際には反対していたとされる土御門上皇も自ら土佐へとそれぞれ流されることとなりました。
このあたりの話は2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にて、おそらくクライマックスとなる出来事。どのように描かれるか楽しみです。
なぜ中ノ島が選ばれたのか
気になるのは何故この島が配流地として選ばれたのか。
まず流刑というのは、死罪にするには身分が高すぎる皇族や公卿に対して行われた刑。遠くの地へ追放することで政権復帰の道を経ち、周辺の勢力から隔離することが目的でした。
ただし、辺境の地ならどこでも良かったというわけではありません。なぜなら、流刑先の生活が苦しく流刑者が非業の最期を遂げてしまうと、怨霊となって厄災をもたらすといわれていたため。そのため、都から遠く、ある程度の生活が営める場所である必要があります。
この島は本土からは遠く離れており、なおかつ豊富な海産物がとれる「御食国」(※朝廷に海産物を献上する国)としての歴史もあったため、豊かな暮らしができる場所であったのです。
他に流されたのはどんな人?
後鳥羽上皇が有名ですが、他にはどんな人物が配流されたのでしょうか。
まず有名な人物として挙げられるのが歌人・小野篁(おののたかむら)。遣唐使として唐に渡ることを拒否し、その事業を風刺した漢詩を詠んだことが嵯峨上皇の逆鱗に触れて838年に流罪に処せられます。
江戸時代には蹴鞠の名家である飛鳥井雅賢(あすかい まさかた)もこの島へと流されています。罪状は女官と密通した罪「遊蕩の罪」。1609年の出来事です。雅賢が隠岐へ来た際、後鳥羽上皇の遺骨が納められた塚は、非常に簡素な状態であったそう。雅賢はこれを嘆き、私財を投じて立派なお墓を創建。これが、先ほど隠岐神社にて紹介した御火葬塚となっていくそうです。
他にも様々な人物が隠岐へ配流された記録がありますが、具体的な島については記載が無いケースも多いです。
(後鳥羽上皇と後醍醐天皇、どちらも隠岐に流されていますが配流された島が違います。「隠岐国海士群に流された人物を選べ」みたいな日本史のひっかけ問題で出そう・・・!)
これにて中ノ島めぐりはおしまい。自転車を返却したら、12:50菱浦港発の「フェリーくにが」で、島後(隠岐の島町)の西郷港へと向かいます。
これまでの島前三島は島前内航船で自由にめくることができましたが、島前~島後間の移動手段は隠岐汽船のフェリーか高速船のみ。ある程度時間が絞られます。
次回からは隠岐諸島めぐり最後の島、島後。最も大きな島で見どころもたっぷり。楽しみです!
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