武田信玄の財政を支えた湯之奥金山。鉱山で暮らす人々の生活や、鉱石から金ができるまでの様子がジオラマや模型、映像コンテンツを通して体感できます。
休館日:水曜、年末年始
料金:500円
温泉街の博物館
金山博物館は、山梨県身延町にある下部温泉郷の温泉街にあります。身延線の下部温泉駅からは徒歩5分ほどでアクセス可能。
川沿いに建つ金色の建物が金山博物館。駐車場は無料で50台ほどあります。
甲斐の国の財源
日本で金鉱山といえば、長い歴史を持つ佐渡金山が有名。しかし、この身延町にも金山があったのをご存じでしょうか。
かつて甲斐の国であったこの地には中山金山、内山金山、茅小屋金山という金鉱山があり、総称して湯之奥金山と呼ばれていました。ここで採掘された金は、この地を領土としていた戦国武将・武田信玄の財政を支え、「武田信玄の隠し金山」との異名もあったそうです。
17世紀後半になると鉱脈が枯渇し衰退していきますが、その後湯之奥金山出身者は全国各地の鉱山でそのノウハウを生かして活躍。大久保長安は、石見銀山、生野銀山、佐渡金山に技術を伝え、鎮目市左衛門は佐渡奉行を努めました。いわゆる鉱山経営という事業の元祖とも呼べる場所だったのです。
鉱山の世界へ
受付を済ませて進むと「金山への道」が。蒔絵のような金の装飾がされた、上品な通路を抜けて進みます。ヒーリングミュージックが流れているため、心が穏やかになってきました。
湯之山金山から採掘された金で造られた小判がずらりと並びます。甲斐国で通用していた金貨を「甲州金」と呼びます。小さくても価値が高い金は、持ち運びや管理がしやすく、なおかつどこでも通用するため部下に対する恩賞としても利用されていました。
甲州金の中でも特に貴重といわれるのが、こちらの「甲州露壱両判」。この小さな金貨を作り上げるのに、1トンもの鉱石を掘る必要があったそうです。
金山を経営する人々を金山衆と呼び、中山金山は「金山衆十人」と呼ばれる人たちを中心に開発を行っていました。金山衆たちは採掘場の管理だけでなく、ときには戦に参加することもあったそう。特に武田信玄による深沢城攻めでは、掘削技術を活かして城の外郭を掘り崩すなどの活躍も見せました。
ジオラマとヒューマンドラマ
こちらは中山金山のジオラマ。戦国時代、最盛期を迎えてにぎわう鉱山の様子を再現しています。
ボタンを押すと、壁に映像がスタート。流れるのは金山の親方が主人公の実写ドラマ。人皆から慕われている人情味あふれる親方の姿は、何だか胸がアツくなります。
話し言葉も「飯にしろし」や「ごっちょかけて」など方言が多用されており、とってもリアル!さらに、ストーリーに応じてジオラマも朝や夜を迎えるほど凝ってます。ちなみに英語字幕も付いてます。
金ができるまで
この金山博物館で特に詳しく紹介されているのが、金を精製するまでの作業。パネルや実物大の人形でとてもわかりやすく展示されています。
金堀(かなぼり)
山から鉱石を掘る作業。酸化して品質の高くなった金を狙い、地表に近い鉱脈を掘っていました。まだ後の鉱山でみられるような「坑道掘り」は行われていなかったようです。
粉成(こなし)
採掘された鉱石を選別。窯で火にかけて砕きやすくしたのちに、唐臼や挽き臼などの道具を駆使して粉々にしていきます。
汰り分け(ゆりわけ)
粉となった鉱石を水と混ぜ、セリ板という刻みの入った板の上に流します。セリ板を水の中でゆすることで、比重によってその刻みに金がたまっていきます。
灰吹(はいふき)
集めた金の粉の中には、まだ不純物が存在しています。灰の中で鉛と混ぜて加熱することにより、不純物は酸化して灰にしみこむ。最後に金だけが残るという仕組みとなっています。
まだ現代のように化学が発達していなかった時代に、化学反応や比重の違いなどを駆使した抽出方法が確立していたことに驚きます!近年の研究によると、ここで見ることができる灰吹き法と呼ばれるテクニックは、古くは飛鳥京(6世紀末~7世紀後半)でも行われていた痕跡が見つかったそうです。さらに、世界に目を向けると古代バビロニアでも行われていたともいわれています。
黄金の足湯
金山博物館の駐車場には黄金の足湯が設けられており、8:30〜18:00まで自由に利用できます。
浴槽は2つに別れており、本日は40℃と41℃。足湯として浸かるには丁度よい温度です。こちらは2006年に湧出した「しもべ奥の湯高温源泉」を利用した、かけ流しの足湯。疲労回復の効能があるので、旅行のひと休みにぴったりです。
なお、加温調整はしていないため、冬季は35℃前後になるそうです。
金山といえば、佐渡金山もおすすめです!この金山博物館は金の精製についてでしたが、佐渡金山では坑道堀りならではの鉱山内での作業や暮らしなどがよりリアルに展示されています。
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