苔むした庭園や竹林が美しい嵐山の古刹。寺院というより山の中の庵といった素朴な雰囲気で、ほっとする場所です。そんな穏やかな空気の寺院ですが、平家物語の悲しい恋の話が残っています。
料金:300円
祇園寺へのアクセス
JR嵯峨野線の嵯峨嵐山駅より徒歩20分、もしくは京福電鉄の嵐山駅より徒歩20分。
今回はバスで愛宕念仏寺へ向かい、そこから歩いて嵐山駅まで下る「嵯峨野めぐりコース」で訪れました。
お寺というより茶房のような門構え。屋根の上にはコケがびっしり。入口からすでにコケが溢れています。
一面に広がる苔の庭
境内の中央に広がる庭園は、一面コケが覆い尽くすモスグリーンのお庭。この祇王寺は苔の寺として有名なのです。
幻想的な緑の庭園で、とても丁寧に手入れされている印象。苔庭は新緑の季節の方が良いかと思っていましたが、3月でも思い描いたような苔庭を見ることができました。
そんな緑の世界に赤い色を落とすのはツバキの花。いくつかは意図的に配置されているように見えます。
苔寺として有名な西芳寺は、往復はがきによる申し込みが必要。また、拝観料も3,000円と敷居が高め。気軽に苔の庭園を味わうにはこの祇王寺がおすすめです。
ユニークな苔
祇王寺の庭園には、およそ30種類ものコケが生えています。境内には各コケの写真や種類が書かれたネームプレートもあり、少しだけコケに詳しくなれます。
こちらはたぶんスギゴケ。地面にへばりつくように生えるものが多いコケ類の中では、かなり背が高く育ちます。
今回新しく知ったのはこちらのヒノキゴケ。フサフサで筆のようで、触ったら気持ち良さそう。「イタチのしっぽ」との別名もあります。
余談ですが、私は小学生のときに「コケの再生」という異様にマニアックなテーマで自由研究を行い、銀賞をもらったことがあります。そのため、他の植物よりも思い入れがあります。
草庵に輝く「虹の窓」
尼寺でもある祇王寺。境内は竹林や庭園が中心で、重厚なお堂などは見当たりません。その影響もあってか、やわらかな空気が流れます。
こちらは草庵。茅葺きの屋根が、苔庭とマッチしています。
草庵の内部は靴を脱いで上がることができます。そこにあるのは「吉野窓」という大きな丸窓。斜めに交差した格子は、よく見ると不揃いで素朴な雰囲気です。差し込む光が作りだす影が虹に見えることから「虹の窓」という別名も。
他にも祇王寺に関わりの深い祇王、祇女、母刀自、仏御前の4人の女性の木像、そして隠れるように平清盛の木像が安置されています。この女性たちと平清盛のストーリーは後ほどご紹介します。
つつましやかな花も見どころ
3月は花が多く咲き始める季節。コケとともに小さな花もいくつか見ることができます。他の寺院ではあまり見かけない山野草が多いのが特徴です。
「ヒトリシズカ」
ぼっち感がある名前ですが、群生しているため全然一人じゃないです。その名の由来は、花が1本で咲くため「ヒトリ」、美しさを静御前という踊り子に見立てて「シズカ」ということらしい。ちなみに、花が2本以上咲くフタリシズカという植物もあります。
「イカリソウ」
錨(いかり)のような十字架の花を咲かせる多年草。通りかかった参拝客の方がしきりに「イカリングって花があった!ほらイカリング!」と連呼していましたが、確かに、手書きのカタカナだと「イカリソウ→イカリング」に空目してしまうかも。ちなみに生薬としても利用されており、強壮やヒステリーにも効果があるとされています。
「カタクリ」
みんな下を向いており、なんとなく恥ずかしがり屋さんな印象です。文字通り片栗粉の原料として利用されていましたが、現在はその役割をじゃがいもに譲っています。
「ショウジョウバカマ」
イカリソウ、カタクリと同系色の花を付けています。ツヤツヤのでろんとした葉っぱが特徴的。高原の湿地などに多く生育しているらしい。
祇王の悲しいストーリー
草案の裏手には、祇王のお墓といわれる石塔があります。
このお寺の名前となっている「祇王」は、平安時代に実在した人物。平氏の繁栄と衰退を描いた軍記物・平家物語には、祇王と平清盛にまつわる悲しいストーリーが描かれています。
近江出身の白拍子(しらびょうし)である祇王は、同じく白拍子の妹・母とともに京で暮らしていました。(※白拍子=平安~鎌倉時代の歌舞。それを演じる踊り子のことも指す)
ある日、祇王は平清盛の目に留まります。清盛は祇王を大変気に入り、望むものは何でも与えるほど溺愛しました。
3年ほど経ったあるとき、仏御前という白拍子が京で評判になります。
仏御前は清盛のもとを訪ねてくるも「遊女は招かれて来るもの、自らやってくるとは何事だ!それに私には祇王がいるのだから立ち去れ」と追い返そうとします。そんな清盛を祇王はなだめ、見てあげるように取り持ちます。清盛は祇王の言うことは何でも聞いてしまうため、仏御膳を招き入れることに。
祇王のお陰で清盛の前で舞う許可を得た仏御前。その舞は、立派でで美しく、それを見た清盛は、なんと一瞬で心移りしてしまいます。
仏御前は、祇王のお陰で披露させていただいだので、祇王に申し訳ないと告げると清盛は「祇王が気になるなら、祇王を追い出そう」と極端な解釈をしてしまい、祇王は屋敷を追い出されてしまいます。
悲しみに暮れて過ごす祇王のもとに、あるとき清盛から手紙が届きます。そこに書かれていたのは「仏御前が寂しそうなので、舞を踊って慰めてやってくれ」という要求。自分が追い出される原因となった仏御前のために舞え、という信じられない内容です。祇王は返事をすることができずにいましたが、母の後押しを受けてこの依頼を引き受けます。しかし、その結果は辛いだけのものでした。
祇王は耐えられなくなり、身を投げることまで考えますが、母の説得で思いとどまり、母・妹とともに都を去って尼となる道を選びます。その後、嵯峨往生院にて3人は日々念仏を唱えて過ごしていました。
ある夜、庵を訪ねてくる者が現れます。その者はなんと仏御前。自分のせいて祇王を京から追い出してしまったことの自責の念に駆られて、尼となり訪ねてきたのでした。
そんな仏御前を祇王たちは受け入れ、その後4人はこの地で静かに暮らしました。
ここだけ読むと、平清盛は女心わからなすぎる気がします・・・。平家が滅んだのも、そういったところからだったのではないかと勘繰ってしまうストーリーです。
なお、平家物語は史実に基づいていない部分も多くあります。祇王がこの世を去ったのは1172年ですが、仏御前が京にやってきたのは1174年。この2人は出会ったことすらなかったと考えるのが自然です。
このあとは、さらに歩いて御髪神社へと向かいます。
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