山の麓に立つ、落ち着いた雰囲気が魅力の寺院。広い縁側を持つ本堂や、山の中腹に残る時雨亭跡など、見どころも多いです。ところで、小倉百人一首の「小倉」って何を指すかご存知でしょうか?
平安から続く古刹
嵯峨野の地に立つ二尊院は、承和年間(834年 – 847年)に創建された歴史ある古刹。「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を祀るのがその名の由来となっています。

嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師(円仁)によって開かれました。一度荒廃するも、鎌倉時代初期に法然の高弟である湛空によって再興されます。応仁の乱によって焼失するも、三条西実隆が寄付金を集めて再建につとめます。
受付からはまっすぐに伸びる参道。9月に訪問したところ青々とした木々に包まれた姿。ここはサクラとモミジが交互に植えられています。紅葉の馬場と呼ばれており、秋の紅葉シーズンにはそれはそれは美しい姿に。

参道の先にある勅使門は、立派な木造の門。かつては天皇の使いだけが通ることを許された門ですが、今は誰でも自由に抜けることができます。扁額には「小倉山」の文字が、蟇股には椿の花と巴の紋が描かれていました。

開放的で心落ち着く本堂
勅使門の先にすぐ見える本堂。本尊の釈迦如来、阿弥陀如来を祀っています。永正18年(1521年)の再建時に建てられた建築ですが、平成の大改修を経て生まれ変わりました。

この本堂は靴を脱いで上がります。広々とした縁側は、風鈴の音が爽やかな空間。縁側に腰掛けて休んでいる人がたくさんいました。

この縁側、本堂の裏側まで続いています。進んでみるとぴかぴかの廊下。迫るように見える斜面は小倉山であり、6体の六地蔵菩薩が隠れています。

境内で見つけたもの
こちらの梵鐘はしあわせの鐘。こころを落ち着けて静かに撞いてくださいとのこと。「自分が生かされているしあわせを祈願」「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」と3回撞くのが作法のようです。

横たわる木材は木樋・泥樋管。江戸時代中期頃、水不足に悩む嵯峨野の民のために、角倉了以や吉田光長・光由兄弟によって築造された菖蒲谷隧道から出土したものであるそう。

近くには角倉了以の像も。徳川家康の政策のもと、朱印船貿易を行い、「水運の父」とも称される人物。この二尊院は、そんな角倉一族の菩提寺でもあるそう。

小倉餡発祥の地
なんと小倉餡発祥の碑もあります。この辺りの小倉の里にいた和菓子職人の和三郎という人物が、小豆と砂糖から小倉餡を作り上げたそう。

小倉あんって、粒あんのことでしょうか?気になったので調べてみると、つぶあんは「小豆の粒を残して炊いたあん」であるのに対し、小倉あんは「こしあんに蜜煮した大粒のあずきの粒を混ぜたもの」であるそう。こしあんのなめらかさに、さらに粒感を加えるという、ハイブリッドなあんですね!
普段はこしあん派ですが、急激に小倉あんが食べたくなってきました!
小倉山に残る時雨亭跡
本堂の先には、石段があります。上ったところにあるのが湛空廟。再建につとめ、ここで教えを広めた湛空上人の碑を収めています。

この先に時雨亭跡があるので向かってみることにしました!細い山道を進んでいきます。といってもアップダウンはほぼないため楽々です。

気軽に向かってしまいましたが、いったいどれくらいかかるのか。この先に山登りがあったりしないか不安になった瞬間、見えてきたのが石積み。こちらが時雨亭跡です。湛空上人廟からわずか2分ほどでした。

この時雨亭というのは藤原定家に関連した史跡のひとつ。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人・貴族であり、「新古今和歌集」の編纂者のひとり。そして、「小倉百人一首」を選んだ人物です。
小倉百人一首の「小倉」ってあまり気にしたことがなかったのですが、藤原定家が小倉山の山荘にて編纂したため、その名を冠しています。
そう、ここが小倉山で、この時雨亭がその山荘であったそう。図らずとも「百人一首誕生の地」とも呼べる地にたどり着いてしまいました!坊主をめくって大爆笑していた幼い頃の自分に教えてあげたいです。
時雨亭跡の目の前は木々が開けた展望台。京都タワーがそびえ立つ京都中心部を一望できて、とっても爽快!山を上った感覚はほとんどありませんが、謎の達成感に包まれました。

アクセスと参拝情報
JR嵯峨嵐山駅から徒歩15分。
| 開門時間 | 9:00~16:30 |
|---|---|
| 料金 | 500円 |
| 公式サイト | https://nisonin.jp/ |
※掲載の情報は2025年9月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。


コメント