玉藻前(九尾の狐)に関わりの深い玄翁和尚によって開かれた寺院、常在院。境内には法石稲荷神社という殺生石を祀る神社があります。住職さんにお話を聞くことができ、殺生石の情報が次々と見えてきました・・・!
殺生石に関わる寺院
6日間でめぐった5月の東北周辺旅。最後の目的地が福島県の白河にある常在院というお寺。ここもまた、前々回(伊佐須美神社)、前回(石子稲荷神社)に続く殺生石に関連のある寺院です。
最終日は新潟を出発し、ニコタンをめぐったり、ビュー福島潟を訪ねたり、将軍杉を見たり、狐の嫁入り屋敷でおにぎりを食べたり、西会津国際芸術村を見学したり、カイギュウランドに立ち寄ったり、伊佐須美神社の殺生石を拝観したり、石子稲荷神社を探したりしていたため、到着時刻は19:00。すっかり真っ暗になってしまいました・・・!
開門時間が決まっているわけではなさそうですが、暗くて何も見えませんし、さすがにこんな時間に参るのはご迷惑かと思い諦めようとしたところ、車の音に気がついた住職さんが出てきてくれました。「全然かまいませんが、真っ暗ですよ」と許可をもらえたので暗闇の中を進み殺生石を探してみることに。
暗闇の境内を進む
ライトで照らすと本堂の裏手に殺生石を示すわかりやすい案内が。
階段を上っていきます。本気で真っ暗です。
持参したライトで照らすとこんな感じで道が続いていました。暗闇ということを除けば、きれいに整備されており歩きやすい道です。
法石稲荷神社と記された赤い鳥居が見えてきました。暗闇で見る鳥居はちょっとだけゾクッとしますね。
枠に囲まれた殺生石
鳥居の奥へ進むと、斜面の上に木枠のようなものが見えます。
そこまで上ってみると、枠の中に大きな石が。これこそがこの寺院に伝わる殺生石。もともとは木の囲いがあったそうですが、現在は修復中とのことです。
石の近くには、殺生石の由来も書かれていました。そのまま転載すると、このような内容でした。
元禄時代(西暦1100年代)変幻自在の力をもって、インド、中国、日本を荒らしまわった九尾の狐は、那須野ヶ原にて死してなお毒石となって怒り狂っていた。これを伝え聞いた源翁禅師は現地に赴き説法にて教化。持っていた「あかざ」の杖をもって毒石を一打すると、その石は三つに割れ、中寺と会津、那須烏山に飛び散った。人々は、この石を「殺生石」として今も祀っている。
これまで知っていた話だと、日本各地に飛んだという記載はあれど、その行き先は少々曖昧でした。しかし、ここでは3つという具体的な数、そして飛んだ先の地名まで具体的に記されています。「中寺」「会津」「那須烏山」の3ヶ所がポイントですね。
更なるディープな情報
真っ暗だし虫も多いしで、そろそろ戻ろうとしたところ、なんと住職さんがライト片手にやってきて解説してくれました!
さきほどの殺生石が飛んだ先の3ヶ所も、さらに詳しい情報が。「中寺」というのはこの常在院のある土地の地名、「会津」は喜多方市の源翁禅師が再興したという示現寺、「那須烏山」は同じく源翁禅師が開いたとされる泉渓寺に飛んだそう。
そして、ここ常在院には、殺生石に関する平安時代の絵巻物を保管しているとのこと。「紙本著色源翁和尚行状縁起」というもので、そこには逃げる大きな九尾の狐と、それを追う武者たちの姿が描かれています。
この絵巻、通常は非公開ですが毎年8月7日に御開帳となります。拝観時間はだいたい9:00~15:00くらいであるそう。たった1日だけであるためなかなか難易度は高いですが、いつか生で見てみたいものです。
これまで殺生石については何ヶ所かめぐってきて色々調べていましたが、ここに来て知らなかった情報が次々と飛び出してきて胸が高鳴ります!!住職さんの話によると、ここ常在院の殺生石も、愛知県や沖縄県など遠方からわざわざ訪ねてくる人がいるそう。これまで特に誰とも共有したことがなかった殺生石、わたし以外にもめぐっている人がいるのを知って嬉しくなりました。
ちなみに先ほどの「紙本著色源翁和尚行状縁起」ですがWebで検索すると、その姿を見ることができます。逃げる九尾の狐が描かれて・・・と言いたいところですが尻尾の数が9本じゃなくないですか!?
9本になったのは、浮世絵や歌舞伎の題材としてポピュラーになった江戸時代であるというウワサも。殺生石について調べる際は、江戸時代に脚色されているということを念頭においておかないといけませんね。
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