無血開城で江戸の町を守った英雄『勝海舟記念館』(洗足池)

東京都(23区)

幕末の志士・勝海舟(かつかいしゅう)に焦点を当てた歴史ミュージアム。いったいどのような人物であったのか、そして彼の成し遂げた「江戸無血開城」は日本史上に残る偉業とされていますが何が凄かったのかを知ることができます。

2021/6/13(日)

洗足池に立つ記念館

かつて勝海舟が愛し、晩年の邸宅も建てられていた洗足池(せんぞくいけ)。現在は大田区立洗足池公園として整備されており、図書館やボート乗り場もあるため多くの人々でにぎわっています。

その傍らに作られたのが勝海舟記念館。幕末から明治という激動の時代に活躍した勝海舟をテーマにしたミュージアム。2019年に開館した、比較的新しい記念館です。

見やすい展示パネルや映像コンテンツ、直筆の書物などの貴重な資料を展示しています。海舟の名言や思想を紹介するデジタルコンテンツ「海舟ブレイン」など、勝海舟についてよく知らない人でも楽しめる内容です。

文化財を活用したミュージアム

この記念館は、旧清明文庫という勝海舟を後世に伝えるために建てられた建築を活用しています。1928年に竣工した昭和初期の建築物で、登録有形文化財にも指定されています。

正面玄関の上には4本の柱がそびえており、ネオゴシック様式を基調としています。屋根のようにせり出した軒先は、ゆるくカーブを描いているのも特徴的。

床にはモザイクタイルがはめられており、六角形が組み合わさった幾何学模様を描いています。白と青のカラーリングが爽やか。

貴賓室の天井は、1段高くなっている折り上げ式。白い石膏による気品あふれる装飾がなされています。

勝海舟の生涯

1823年に江戸の旗本の家に生まれた海舟。直心影流の道場で剣術を学び、さらに禅や兵学、そして蘭学についても深く学んでいきます。(※蘭学=オランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学問)

その後、長崎にて航海術や砲術を学んだ後、太平洋を横断してアメリカへ向かう咸臨丸(かんりんまる)に乗船。帰国後は海軍興隆のため活動を行い、海軍士官を養成するための神戸海軍操練所を開設します。

1868年、新政府軍の西郷隆盛と会談し、和平交渉を行います。その結果、江戸無血開城を成し遂げます。

明治維新後、新政府において重役を任されるも、辞退したり短期間で辞職したりと積極的な活動は控えるようになります。晩年、赤坂で暮らしていた海舟のもとには、多くの人物が訪れていたそうです。

ちなみに、身長は156cmくらいとかなり小柄だったそう。

アメリカへ向かう咸臨丸

幕府がオランダに依頼したスクリュー式蒸気軍艦・咸臨丸は、サンフランシスコへと向かうため出航します。その目的は、「日米修好通商条約の使節を載せたアメリカ軍艦ポーハタン号の随伴」、そして「幕府の軍艦を用いて長崎海軍伝習所での成果を外洋航海で試す」という2つ。

勝海舟は事実上の艦長で、他には軍艦奉行の木村喜毅、その従者であった福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船。日本近海で難破し、帰国を待っていたブルック大尉らも同乗していました。

浦賀を出港した咸臨丸は、序盤から猛烈な雨と風に襲われます。初めての大海原での嵐に、乗組員は大苦戦。経験不足の日本人には成す術もなく、ブルックを始めとしたアメリカ人が中心に操船を行う結果に。海舟は、指揮権をブルックに委譲。ブルックは規律を定め、シーマンシップを指導し、アメリカへと導きます。

38日に及ぶ航海の末、咸臨丸はサンフランシスコに入港。日本の軍艦としてはじめて太平洋を横断することに成功しました。日本とは異なり馬車やガス灯が整った街並み、そして市民が平等に暮らす世界。ここで見たアメリカの姿は、のちの海舟の思想に影響を強く与えることになります。

東京を守った江戸無血開城

江戸時代末期、徳川家率いる幕府軍と薩長同盟を中心に組まれた新政府軍の戦いである戊辰戦争が勃発します。

鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、と幕府軍が新政府軍に押される形で戦場は徐々に北へと動いていき、ついに幕府軍の本拠地である江戸への総攻撃が計画されます。ところが、幕府軍はあっさりと江戸城を放棄。戦いが起こることなく、江戸は新政府軍へと明け渡されました。

このように書くと、幕府軍がしっぽを巻いて逃げたように捉えられるかもしれませんが、実際はこの結論に至るまでに、両軍における様々な交渉が水面下で行われていました。

軍事取締という役についていた海舟は、幕府軍を代表して新政府軍参謀の西郷隆盛と会談。「徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する」「城内居住の者は、城外に移って謹慎する」といった降伏条件をすり合わせます。

幕府軍の条件は新政府軍の提示したものとは大きくかけ離れていましたが、西郷は旧知の仲であった海舟を信じて譲歩。江戸城総攻撃を中止、血が流れることなく戦いが終わりました。

幕府軍は、民衆を避難させた上で火を放ち、新政府軍の進行を阻止する「焦土作戦」を考えていました。もし戦いが起こっていたら、江戸の町は火の海となり、多くの家屋や家財が失われていました。

また、「諸外国の干渉から日本を守るため」という思惑があったとも考えられています。新政府軍はイギリスが、幕府軍はフランスが支援しており、もし江戸城総攻撃が行われていたらイギリスとフランスの代理戦争になっていました。どちらが勝利してもその後の干渉は避けられず、日本の中心である江戸が炎上し、疲弊した隙を狙われて侵略を受けていたかもしれません。

歴史の教科書では、「どちらが勝ったか」程度の記載しかなくとも、その裏には様々な人の活躍や、考え抜かれた決断があります。改めて歴史の面白さに気づかされるスポットでした。

アクセスと営業情報

東急池上線の洗足池駅から徒歩6分。途中には、ボート乗り場、洗足池図書館、旧勝海舟別邸(洗足軒)跡があります。

駐車場はありませんが、すぐ隣にコインパーキングがありました。(20分200円)

開館時間 10:00~18:00
休館日 月曜
料金 300円
公式サイト https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hakubutsukan/katsu_kinenkan/kinenkan/index.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました