江戸時代に発生した浅間山大噴火の歴史をいまに伝える鎌原観音堂。埋没してしまった石段からは犠牲者の遺体が発見されました。隣にある郷土資料館と合わせて、一瞬にして消滅してしまった鎌原集落について知ることができる場所です。
浅間山の天明大噴火
長野県と群馬県にまたがる標高2,568mの浅間山は、現代においても活動を続ける活火山。これまで何度も噴火をしてきた非常に活発な火山であり、飛鳥時代から令和にかけて多くの噴火記録が残っています。
数多くの噴火記録の中でも、最も著名なものは江戸時代におきた天明大噴火。天明3年(1783年)の7月7日(新暦8月4日)に発生した大噴火で、大規模な被害をもたらしました。
その範囲は浅間山の周辺にとどまらず、降り注ぐ火山灰や軽石は関東一円にまで影響を与え、流れ出した火山泥流は川を流れて江戸湾まで達します。さらに火山灰の影響で天候不順がおこり、江戸四大飢饉の一つにして近世最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」の間接的な原因にもなりました。
被災者の魂を癒す観音堂
数多くの集落に被害を及ぼした天明大噴火ですが、その被害が最も甚大といわれているのが鎌原村。噴出した火砕流や土石なだれにより、村全体が一瞬にして埋没してしまいました。犠牲者は村の人口の8割を超える477人。助かったのは、観音堂に逃げ込んだ者や村外にいた93人だけだったそうです。
災害から人の命を救ったこの鎌原観音堂は、厄除けのご利益があると信仰されています。
境内には大きな観音像。200回忌供養の際に建立されたそうです。
発掘調査で見つかったのは・・・
お堂に向けて15段ほどの石段が続いています。しかし、これはあくまで現在の姿。
昭和54年の発掘調査の際に、全部で50段の石段が存在したことがわかりました。この赤い橋の下には、35段・高さにして約6mが埋没しているのです。
そして、その調査の際に発掘されたのは石段だけではありません。なんと2人の被災者の白骨遺体が見つかったのです。
この2人は片方がもう一人を背負っている状態でした。発掘された骨格から、背負われているのは50~60歳の女性、背負っているのは30~50歳の女性ということがわかっているそう。骨格から復元された顔がとても似ていたため、この二人は血のつながった親子、もしくは姉妹であった可能性が高いようです。
あともう少し石段を登っていれば助かったのに・・・。もし背負っていなければ、1人は助かったかもしれません。でも、見捨てることはできなかったのでしょうね。
江戸幕府は鎌原村に対してただちに復旧事業を開始、現在の金額にして一億円相当の850両の復興資金を送ります。生き残った鎌原村の人々は、家筋などの垣根を取り払い、全員が一族として再スタートを切ることにになりました。
隣にある郷土資料館
鎌原観音堂の隣には、嬬恋郷土資料館があります。入館料は300円。(※写真撮影禁止)館内には、天明大噴火に関する映像やパネル、発掘された遺品などが展示されております。
テラスは見晴らしの良い展望台となっています。200年以上前の災害が嘘のようにのどかな光景ですが、地面の下にはたくさんの命が眠っているのですね。
噴火に関する展示以外にも、縄文時代の遺跡からの出土品、そしてキャベツに関する展示もあります。古代ギリシャからはじまり、嬬恋村まで伝わるキャベツロードの歴史が展示されていました。
嬬恋村といえばキャベツ。高温や干ばつに弱いキャベツですが、夏でも涼しく降水量が多い嬬恋村は生産に最適なのです!さあ、キャベツ見に行こう!!
次回につづく
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