戦争の惨劇を今に伝える場所『チビチリガマ』(読谷村)

沖縄県

沖縄をめぐる上で無視できない沖縄戦の傷跡。読谷村にあるチビチリガマは、米軍の上陸に伴い住民が多く避難した場所でした。うっそうとした森の中に静かに口を開けるこの洞窟では、多くの人が命を落とす惨劇が起こってしまいます。

訪問日:2022/3/28(月)

チビチリガマとは

ガマというのは沖縄の自然洞窟のこと。かつては風葬の場所とされていましたが、その多くは沖縄戦の際に軍事施設や住民の避難場所となりました。

今回ご紹介しますチビチリガマは、139名の方が避難していました。上陸した米軍はこのガマに向かって投降を呼びかけますが、避難した人々はこれを拒否。

ここに逃げ込んだ住民たちは、「鬼畜米英」と教え込まれていたため、敵の手にかかるくらいならと「集団自決」を決意。140名のうちの自決者数は83名。そのほとんどは18歳以下の子供であったそう。

整備されたガマ周辺

ここは修学旅行のルートに組み込まれることもある場所。トイレ付きの駐車場が整備されています。

入口を進むと下りの階段。道は整備されており、歩く距離もそれほど長くないため靴は何でも大丈夫。ただし、3月で既に蚊がたくさんいたので、虫よけはお忘れなく。

階段を降りた先は、大きなガジュマルがそびえる広い空間。薄暗く静かな空間は非常に重たい空気が流れます。

ガマの入り口

広場の奥にある穴がチビチリガマ。色鮮やかな千羽鶴がたくさん供えられています。

ここより先は遺族会の意志により立入禁止となっています。

直ぐ側を流れるせせらぎの音と、車の音、そして鳥の声。命を落としていった先人たちへ祈らずにはいられない場所です。

鎮魂の像

ガマの入り口側には大きな石のお社のようなものが置かれています。こちらは、読谷村在住の彫刻家・金城実による世代を結ぶ平和の像

中には三線を抱えた僧侶が置かれており、その後ろには霊魂のようなレリーフが渦を巻く。像の右側に置かれた髑髏と骨壷からは只ならぬ空気を感じます。

子供を抱えた母親の像。掲げた右手が掴もうとしているのは何だったのでしょうか。

チビチリガマの歌が書かれた木の板。手書きの文字には思いを強く感じます。

少し離れたところに白い十字架も掲げられていました。

集団自決の実態

この場所でこのような事件があったことは、終戦後も長い間伏せられていました。

ここで起こった集団自決は、一方的なジェノサイドとは異なり、その実状は非常に複雑。自決を誘導した人や、望んでいなくともその選択をするしかなかった人、集団の意に背いた結果生き延びた人など、遺族や生存者の間にも深い遺恨を残す事件でした。そのため、忌まわしい記憶として、1983年頃まで人々は口を閉ざしていました。

生存者の証言によって、その実態が徐々に明らかになっていきます。

集団自決のきっかけとなったのは18歳の女性であったそう。「アメリカにやられるくらいなら、お母さんにやられたい」、母は娘の首を切り、自らも自決しました。これに端を発し、自決するものが続出。

共に避難していた元日本兵は、布団に火をかけ煙による窒息を図り、毒薬を所持していた従軍看護婦は家族親戚15人ほどに注射し安らかに眠りました。

■ユンタンザミュージアム
座喜味城跡にあるユンタンザミュージアムには、当時の様子を再現した模型をはじめ、チビチリガマに関する詳しい内容が展示されています。合わせて訪問する際は、先にこちらに行くと、より理解が深まるかと思います。

2017年に起こった事件

チビチリガマでは、2017年にガマの内部が荒らされるという事件が発生しました。遺骨が荒らされたり、千羽鶴がちぎられたりという非常識な犯行でした。

この事件の犯人は4人の少年であったそう。その動機というのは「肝試し」。少年たちはここで起こった凄惨な出来事について「知らなかった」と供述したそう。それが自己弁護のための詭弁である可能性ももちろん考慮すべきですが、本当に知らなかったとしても実物の骨壷を前に踏みとどまれなかったことは理解し難いです。きっと「なんか人がたくさん命を落とした場所」くらいの浅い認識であったのではないでしょうか。

若気の至りと呼ぶには深刻過ぎる内容でありますが、これほどまでにリアルな声が残る歴史の伝承が薄まっていっていることについても、深く考えさせられる事件と感じます。

その後、少年たちは、遺族への謝罪、ガマの修復や清掃、ガマでの集団自決に関するレポートの作成を行い、罪を償います。ガマの周辺には、少年たちが謝罪の意を込めて造った野仏がいくつも置かれていました。

今後、しっかりと歴史を学んだ彼らが、それを次の世代へ伝える側として成長してくれることを願います。

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