積み重なる遷都の歴史『飛鳥宮跡』(明日香村)

奈良県

飛鳥時代に造られた宮(皇居)の跡が残る遺跡。調査によると、この場所には複数の宮が幾度となく造営されてきました。宮が移り変わる背景には、いったいどのような歴史があったのでしょうか?

訪問日:2025/5/11(日) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

飛鳥の4つの宮

飛鳥時代に天皇の宮をはじめとする様々な機能が集まっていた都市・飛鳥京。明日香村にある飛鳥宮跡は、飛鳥京の中でも天皇の住まいである「宮」の遺跡です。

もともとは皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」の跡と考えられていましたが、発掘調査により舒明天皇の「飛鳥岡本宮」、斉明天皇の「後飛鳥岡本宮」や天武・持統天皇の「飛鳥浄御原宮」と、複数の宮が歴代で置かれていたことが判明。総称して飛鳥宮跡と呼ばれています。

年代ごとに並べるとこのような感じです。

舒明天皇「①飛鳥岡本宮」(あすかおかもとのみや)(630年〜636年)
皇極天皇「②飛鳥板蓋宮」(あすかいたぶきのみや)(643年〜645年、655年)
斉明天皇「③後飛鳥岡本宮」(のちのあすかのおかもとのみや)(656年〜661年)
天武・持統天皇「④飛鳥浄御原宮」(あすかきよみがはらのみや)(672年〜694年)

実は4つの宮は、連続しているわけではなく、それぞれ間が空いております。いったいどのような歴史があったのか。日本史の中でさらっとご紹介させていただきますね!

大化の改新の舞台

629年に即位した舒明天皇は「小墾田宮」より遷宮し、「①飛鳥岡本宮」を建てます。しかし、火災により「田中宮」「百済宮」へ遷ることに。舒明天皇が崩御した後、その皇后が即位して皇極天皇に。「②飛鳥板蓋宮跡」を築き、そこを皇居とします。

ここでおこった歴史的な大事件が乙巳の変

・・・といわれてもピンと来ない方も多い気がしますが、これは中大兄皇子と中臣鎌足が、当時強大な力を持っていた蘇我入鹿を討った事件のこと。これに始まる天皇家を中心とした国家を目指した政治制度改革は「大化の改新」と呼ばれています。これならきっと皆さんご存知なハズ!

この乙巳の変を受け、皇極天皇は天皇の座を退位、孝徳天皇へ史上初の「譲位」を行います。孝徳天皇は難波宮へ遷都するも、中大兄皇子と対立。中大兄皇子は臣下を連れて飛鳥へ戻ってしまいます。取り残される形になった孝徳天皇は失意の中、病により崩御してしまいます。

孝徳天皇は皇極天皇の弟。史上初の譲位は、姉から弟へ皇位を継承するというものでした。

再び利用される飛鳥板蓋宮

飛鳥に戻った中大兄皇子は天皇の座には着かず、皇極天皇が再び「②飛鳥板蓋宮」にて即位し、斉明天皇に。退位した天皇が再びその座につくことを「重祚(ちょうそ)」と言いますが、これも史上初であったそうです。なぜ中大兄皇子が即位せずに、重祚が行われたのか、その理由は政権を安定させるためや豪族との関係調整などを優先させたのだと考えられています。

その後、「②飛鳥板蓋宮」は火災にあい、「③後飛鳥岡本宮」が建てられます。「①飛鳥岡本宮」の跡地でありますが、前述の通り斉明天皇は舒明天皇の皇后。亡き夫の旧宮地を選んだと考えると、深い想いを感じます。

皇極天皇・斉明天皇は、中大兄皇子の母。自分の母が天皇の際にクーデターとも呼べる事件をおこし、その後に時間を稼ぐかのようにふたたび即位させる・・・。非常に思慮深く計算高い人物であったのかもしれません。

最大規模の飛鳥浄御原宮

661年に斉明天皇が崩御。ついに中大兄皇子が天皇に即位かと思いきや、朝鮮半島の情勢が不安定であることなどからすぐには即位しませんでした。この間、7年ほど天皇不在の期間があります。

その後、飛鳥から近江大津へと遷都。その理由は、内陸部に置くことで海外からの侵攻に備えたという説や、反対勢力の多い飛鳥を離れたかったという説が有力であるそう。この地に置いて、中大兄皇子は満を持して天智天皇に即位。

天智天皇が崩御すると、皇太子であった大海人皇子は近江朝廷に反旗を翻し壬申の乱が勃発。天智天皇の息子である弘文天皇(大友皇子)を倒し、即位して天武天皇に。宮を飛鳥の地に戻して、飛鳥時代最大規模の宮「④飛鳥浄御原宮」を築きます。

石葺の広場は、この「④飛鳥浄御原宮」のもの。4つの中で最も新しい宮の跡です。

こちらの石の四角形は井戸の跡。こちらもまた同時代のものであるそう。

そのみなみには白い柱が立ち並ぶ建物の跡。東西19.2m、南北11.2mという規模で、直径約35cmのヒノキ材の柱が建てられていたことがわかっています。

この「④飛鳥浄御原宮」の後、京は「藤原京」へと遷都。これまでの宮殿+集落という形から、条坊制が用いられた都市構造へと変わり、後の「平城京」や「平安京」へと続いていくのです。


 

というわけで、4つの宮跡である「飛鳥宮跡」。遺跡として整備されている箇所はそれほど広くありません。ぱっと見るだけなら一瞬で終わってしまうスポットですが、せっかくならば飛鳥時代の歴史を調べながら歩いてみるのがおすすめです!

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