天草とキリスト教の深い関係『天草キリシタン館』

天草諸島

伝来、禁教、潜伏と天草諸島におけるキリスト教の一連の流れをつかむことができるミュージアム。天草観光の序盤に訪問すると、その後の島めぐりで見えるものが変わります。

営業時間:8:30〜17:00
休館日:12/30〜1/1
料金:300円
訪問日:2019/10/6(日) 

山の上のミュージアム

天草四郎ミュージアム、天草ロザリオ館、天草コレジヨ館などキリスト教関連のミュージアムが多数存在する天草諸島。今回訪れたのは、天草下島の市街地、本渡(ほんど)にある天草キリシタン館。中世の山城がコンセプトという外観は、どこか美術館の様にも見えます。

天草キリシタン館
市街地から少し登った山の上にあり、周辺には背の高いヤシの木がそびえる南国風の雰囲気。入館料は300円で、館内は撮影禁止となっています。

荘厳な展示室

最初は約12分の映像からスタート。薄暗く静かで神秘的な雰囲気の展示室では、南蛮文化の伝来から、天草・島原の乱、その後禁教令が解かれるまでの天草とキリスト教の関わりをパネルや実物を交えた資料で解説しています。

天草・島原の乱の年表は、両陣営からの「矢文」の文面が記載されています。お互いどのような主張があったのかを知ることができるので、一気に引き込まれます。

目を引くのは、原城に籠城していた一揆勢が使用していたとされる旗『陣中旗』のレプリカ。
そこに描かれているのは聖杯、聖体、そして天使・・・。よく見ると血痕や刀傷のような損傷もあり、戦いの激しさを物語っています。この旗は、日本における初期の洋画としても評価されているらしい。

陣中旗

島原城にて撮影した実物

 

知っておきたい3つのワード

天草を観光する際に避けては通れないのが、キリスト教とのかかわり。「禁教令」「天草四郎」「天草・島原の乱」、この3つの言葉を少し知っておくだけで一気にわかりやすくなるので、シンプルにまとめました。

禁教令


禁教令と一言でいうと関連する法令を含めますが、天草の歴史に最も関わってくるのは1613年に江戸幕府が出したキリスト教を禁止とする命令。この法令が発令されてからは、キリスト教徒への弾圧が各地で行われるようになりました。

天草・島原の乱


厳しい年貢の取り立てや飢饉(ききん)で過酷な暮らしを強いられてきた島の人々が、幕府に対して立ち上がったのが天草・島原の乱。幕府軍を相手に約37,000人もの農民が武器を持って一揆を起こし、123日に及ぶ戦いがはじまります。終盤となる原城攻防戦では、一揆軍は幕府軍の指揮官である坂倉重昌を討ち取るほどの活躍を見せます。最終的には鎮圧されてしまいますが、
日本最大規模の一揆でした。

参加者の多くがキリスト教徒であったため宗教戦争とされることも多いですが、実際はキリスト教徒ではない農民も多く参加していました。現在では、厳しい年貢の取り立てへ反発した百姓一揆にキリシタンも加わったとの見方がされています。
※一般的には「島原の乱」ですが、天草地方では「天草・島原の乱」という表記を多く見かけたのでこちらで記載しました。

天草四郎


天草というコトバをきいて多くの人が思い浮かべるであろう人物・天草四郎。本名は益田四郎という名で、生まれは天草の大矢野、宇土の江辺、長崎の3ヶ所の説があります。

優れた教養と、生まれながらのカリスマ性を持っていたという天草四郎は、天草・島原の乱が勃発した際、15~16歳にして一揆勢の総大将として擁立されます。37,000人といわれる一揆軍を率いて戦うも、乱が鎮圧されるとともに討ち取られ、その生涯を閉じることとなります。

気になるのは原城からの落人の言葉。

『大将四郎ともうすものはいるそうだか、ついに見たことがない。』

女性説や不在説、生き延びた説など様々な伝説が残る人物です。

天草・島原の乱の後

マリア像

天領となった天草

1638年、原城に籠っていた一揆軍は、幕府軍の総攻撃により全滅。天草・島原の乱は終焉を迎えます。荒廃した天草は天領(幕府の直轄地)となり鈴木重成によって立て直しが行われました。重成は年貢を軽減するために尽力し、天草島民の生活の安定に努めました。また、千人塚を建てて一揆により命を落とした人々の慰霊も行いました。多くの犠牲者を出した天草・島原の乱ですが、結果的に天草の人々の暮らしは向上することになったのです。

潜伏キリシタンの時代へ

天草・島原の乱により島原半島のキリシタンはほぼ全滅。しかし、天草地方では、戦いに参加しなかったキリシタンがわずかながら残ります。信徒たちは乱の終焉後、潜伏キリシタンとして信仰をつないでいくこととなりました。

天草キリシタン館には、江戸幕府が潜伏キリシタンを発見するために使用した「踏み絵」や、禁教下において、表向きは仏教徒を装う潜伏キリシタンたちの信仰の対象となっていた「マリア観音」など潜伏キリシタンに関連する遺物も多く展示されています。

ついに信仰の自由が

明治時代である1873年にキリスト教禁制の高札が撤去され、1889年についに信仰の自由が認められます。天草・島原の乱集結から251年後の出来事となりました。これにより潜伏キリシタンの時代は終わり、以降は天草にも崎津天主堂や大江天主堂といった教会堂が建てられました。

 



 

写真がないためわかりにくいですが、とても見やすく感覚的に楽しめるミュージアムでした。せっかく天草に来たのだから、天草キリスト教史についてもっと詳しく知りたい。引き続き、天草四郎ミュージアム、天草ロザリオ館、天草コレジヨ館へも行ってみることにします!

このあとは車で25分ほど走りイルカウォッチングクルーズへ。

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