かつて江戸と京都を結んでいた中山道の中でも、指折りの難所であった木曽の桟(かけはし)。崖を進むその危うさは、松尾芭蕉や正岡子規の歌にも詠まれていました。現在はわずかにその遺構を残すだけです。
朱色のかけはし
Google Mapで「木曽の桟」と示された場所へ向かうと、立派な赤い橋が見えます。
実は、この橋は木曽の桟ではありません。木曽川に架かる橋で、その名も「かけはし」というややこしい名前をしています。
さて、木曽の桟はどこにあるのでしょうか?実は今立っている国道19号線の足元こそが「木曽の桟」なのです。
橋に見えないかけはし
対岸から見ると、道路の下に一か所だけ石垣が積まれている様子を見ることができます。こちらこそが、木曽の桟。
木曽の桟は川に架かる橋ではなく、岩肌を添うように造られた桟道タイプの橋だったのです。現在ではわずかにその石垣の跡を見ることができます。
これだけ見ても、全くイメージがわきませんね。中山道の難所といわれた木曽の桟は、いったいどのような橋だったのでしょうか。
変化する桟の歴史
もともと木曽の桟は、断崖に打ち込んだ丸太の上に板を乗せて、藤の蔓で結んだという非常に簡易な桟橋でした。
そんな桟橋は、1647年に通行人の松明の火で焼失してしまいます。ここが通れなくなってしまうと、中山道という大動脈がストップしてしまうため、流通が止まってしまいます。
翌年には尾張藩の手によって、一部に木橋を交えた102メートルの石垣が造られました。その後も1741年と1880年の改修で、全て丈夫な石垣へとアップデートされていきます。
1911年、そんな交通の要所であった木曽の桟も、国鉄中央線工事の影響でついに撤去されることに。長い歴史に幕を閉じることとなりました。
その後、国道19号線整備によって石垣の一部が保存されることになり、現在見ることができる姿へと形を変えます。
句に込められた危うさ
古くより「木曽の棧、太田の渡し、碓氷峠がなけりゃよい」というキャッチフレーズがあったように、中山道の三大難所とも呼ばれていた木曽の桟。危ういものの代名詞としても広く知れ渡っておりました。
その様子は俳句や短歌にも残されており、桟の近くには句碑が建てられています。
かの松尾芭蕉は更科紀行でこの木曽の桟えを訪れ句を残しています。更科紀行は1688年の出来事なので石垣は造られているのですが、まだまだ危険な箇所は多く残っていたのでしょうね。
「桟や 命をからむ 蔦かつら」
こちらは正岡子規の句碑。子規はかつて芭蕉も訪れたこの地に訪れ、句と歌を3つ残しています。訪問したのは1891年なので、改修工事は全て完了して頑丈な桟となっていたはず。きっと、かつての難所を頭に浮かべながら、思いを馳せたのではないのでしょうか。
「かけはしや あぶない処に 山つつじ」
「桟や 木にとどかず 五月雨」
「昔たれ 雲のゆききの あとつけて わたし染めけん 木曽のかけはし」
木曽の桟に似た木のかけはし
木曽の桟跡の対岸、少し離れたところには木のかけはしという、これまたややこしい名前の橋があります。木曽の桟のような桟橋スタイルの橋で、木の柱で支えられています。
通行しているときは全くわかりませんが、道路沿いの階段を降りていくと、その姿を見ることができます。
こちらは地元の木材をPRするため、1996年に造られました。以前はもっと柱に近づくことができだようですが、2020年11月現在立入禁止となっていました。
なお、木曽のかけはしからは少し離れているため、車移動がおすすめ。ちょっとした駐車スペースもあります。
アクセスと周辺情報
木曽の桟があるのは、長野県の上松町。すぐ近くには、巨大な岩場が迫力ある寝覚の床があります。また、奈良井宿と妻籠宿の間にあるため、宿場町めぐりをする際に、ついでに立ち寄ってみるのもおすすめです。
駐車スペースは、赤い「かけはし」の西側に数台あります。また、棧温泉旅館が橋のすぐ近くにあり、日帰り入浴も可能です。
朱色の「かけはし」、石垣だけの「木曽の桟」、木曽の桟をモチーフに造られた「木のかけはし」。似た橋が複数あって惑わされる感覚は、高知県のはりまや橋のようですね。
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