2度と帰ることのない航海『補陀洛山寺』(那智勝浦町)

和歌山県

わずかな食料と油だけを積んだ船で、お坊さんが大海原へと旅立つ「補陀洛渡海」で知られる寺院。海の彼方にあるという補陀洛浄土を目指し、出口を閉ざされた船は向かいます。この渡海には、遥か遠く琉球へも影響があったようです。

参拝時間:8:30~16:00
料金:無料
訪問日:2019/5/1(水)

静かに佇む補陀洛山寺

熊野那智大社や温泉、マグロが有名な港町である和歌山県那智勝浦町。そこにある補陀洛山寺(ふだらくさんじ)へやってきました。JR那智駅からも徒歩3分程度と、とてもアクセスが良いお寺です。駐車場ももちろんあります。

2004年に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」へと登録されたお寺でもありますが、熊野三山に比べると人は少なくとても静かな境内。

この補陀洛山寺は、補陀洛渡海(ふだらくとかい)という儀式が行われていたことで有名なお寺。これはいったい何でしょうか?

補陀洛渡海とは?

補陀洛渡海というのは、海の彼方にあるという極楽浄土・補陀洛山を目指し、大海原へと漕ぎ出す儀式。ここだけ切り取ると華やかな旅のスタートにも感じとれますが、実際は大きく異なります。

まず、漕ぎ出す船はとても小さな船。海が荒れたら簡単に沈んでしまいそうなボートです。

そして、その船には出口がありません。

30日分というわずかな食糧と油だけを積んだ小船で、沖へと曳航され、そのまま海へ消えていきます。

2度と帰ることはできない、命を懸けた捨身行とも呼べる航海。この補陀洛山寺の住職は、60歳頃になるとこの補陀洛渡海を行っていたそうです。

出口のない渡海船

補陀洛山寺には、そんな補陀洛渡海に使用された渡海船の展示があります。

切妻造りの屋形があるだけの、全長6mほどの小さな船。いざ現物を目にすると、こんな小さな船で大海原へ出るのかと、考えただけで不安になります。

四方を囲む朱色の鳥居はそれぞれ、発心門、修行門、菩提門、涅槃門の仏の修行過程を表しているそう。

こちらの南無阿弥陀仏の帆を立てて沖へとと進みます。

おそらくこちらが屋形の入口。お坊さんが入ったあとは、釘で打ち付けてしまうため、中からは出ることができなくなります。

お坊さんはこの中で命が尽きるまでお経を唱え続けるそう。

少し余談です。

平成たぬき合戦ぽんぽこという映画の終盤、住みかを人間に奪われたタヌキたちが宝船に乗り旅に出るシーンがあります。玉袋には「南無阿弥陀仏」と書かれており、まさに補陀洛渡海を表しています。

ただ、少し違和感があるのは、タヌキたちは死に場所を求めた「死出の旅」。そして、最期の時を楽しむかのように宴会をしているところ。ここは補陀洛渡海とは少し違うように感じます。集団自決を表しているという考察も見かけましたが、別のタヌキたちが特攻玉砕を仕掛けているところからも、その方が合致しそうです。

立ち並ぶ供養塔

平安時代から江戸時代まで20数回にわたり、このお寺のお坊さんが渡海した記録が残っています。
補陀洛山寺の裏山には、そんな渡海上人の供養塔が並んでいました。

現代日本に暮らしていると、信仰のために命を捨てる行為は理解が難しい。お坊さんたちは、いったいどんな気持ちで渡海に挑んでいたのでしょうか。中には生への執着を捨てきれなかった人もいたのでは。

16世紀の後半、金光坊というお坊さんは途中で船から脱出に成功し、近くの島へと渡りました。しかし、人々に見つかってしまい、無理矢理また船に乗せられてしまったらしい・・・。

このお坊さんの話は、井上靖の小説『補陀落渡海記』のモデルとなっています。

なお、江戸時代からは補陀洛渡海は少し変化します。それまでは生きたままのお坊さんが乗船する「捨身行」であった渡海は、天寿を全うした住職を船に乗せる「水葬」へと変わっていきます。命の考え方が変わっていったのでしょうね。

つながる熊野と琉球

どうしても気になってしまうのは、補陀洛渡海に出た船がその後どうなったのか。

不思議なことに、船が沈んだり、遺骸が上がったなどの行く末についての記録は残っていないようです。本当に極楽浄土へと辿り着いたのでしょうか・・・?そう考えたいところですが、渡海船が乗る黒潮はとても流れが強く、高い確率で日本列島から離れ太平洋へと連れ去られるそう。きっと外洋の遥か大海原で波に飲まれてしまうのでしょう。

そんな中、補陀洛渡海のその後の記録が残っている人物が2人いました。

1人目は禅鑑(生没年不詳)。13世紀の終わりごろに補陀洛渡海に挑み、太平洋を漂い黒潮を逆らってなんと、琉球(沖縄)に漂着してしまったのです。
当時の琉球国王・英祖は禅鑑を重んじ、浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立したそう。これが琉球における仏教のはじまりといわれています。

2人目は日秀(1503~1577年)。この方もまた琉球までたどりついてしまい、沖縄の地に熊野信仰を広めたそう。波上宮を再興したり、金武観音寺を建立したそう。

沖縄を代表する神社・琉球八社のうち7社は熊野信仰の神社。「紀伊半島の山岳地帯である熊野からはるか遠く、南国の沖縄でなぜ熊野信仰が盛んなのか・・・」ずっと不思議に思っていましたが、まさか補陀洛渡海の影響があったなんて考えもしませんでした。熊野と琉球が補陀洛渡海で通じ、いろいろとすっきりしました。

当時、琉球についてどれくらい知られていたのか定かではありませんが、海の向こうの楽園・補陀洛浄土を目指していた渡海僧にとって、温暖で華やかな沖縄の地はまさに極楽浄土に映ったのではないでしょうか。

また、琉球神話には海の彼方にニライカナイという神の国があると考えられています。琉球の人々にとっても、海の向こうからやってきた異国のお坊さんは、神聖な存在に映ったことでしょう。

2つの異なる信仰が海を越えて繋がります。


軽い気持ちで立ち寄ったお寺で、まさか沖縄で感じていた謎が解けるとは思いもしませんでした。国内旅行を続けていると、意外な地域が繋がったりしますが、今回はその中で最もカタルシスを得た瞬間でした。

このあとは太地町にあるくじらの博物館へ。クジラたちに会いにいきます!

コメント

  1. […] […]

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