日本最大級の江戸城に天守が無いのはなぜ?『皇居東御苑』(千代田区)

東京都(23区)

皇居東御苑は無料で利用できる庭園。お堀に囲まれた園内には、かつての江戸城の面影が多数残されています。天守が立っていた天守台や、今なお残る富士見櫓など、見ごたえのある遺構はもちろん、他では見かけないような珍しい果樹も見どころです。

訪問日:2022/11/3(木) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

江戸城はどこにある?

徳川家康が開いたことで知られる江戸幕府。260年に渡り、日本を治めてきました。そんな幕府の中心となったのが江戸城

太田道灌(おおたどうかん)が築いた平山城にはじまる江戸城は、1590年に徳川家康が入城し、1603年に江戸幕府を開幕。その翌年から諸大名に江戸城普請計画を命じ、日本最大の面積を誇る城郭を造り上げます。

さて、そんな江戸城の跡は、現在の東京のどこにあるかご存じでしょうか?

正解は、皇居。幕政が終わった現代においても、天皇や皇族がお住いになる重要な場所とされているのです。

皇居の大部分は一般人は立入禁止。そのため、皇居内を散策して江戸城に面影を探る、ということは難しいです。しかし、諦めるのはまだ早いです!江戸城の遺構をめぐるならば、まず最初に行くのにおすすめなのが今回紹介する皇居東御苑。ここは開園時間内ならば自由に立ち入ることができます。

さらにこの東御苑は、かつて本丸・二の丸・三の丸という城郭のメインとなる建築が建てられていた場所なのです。周辺は再開発が進み大きなビルが立ち並びますが、巨大な石垣とお堀は今なお残っております。

選べる3つの入口

皇居東御苑の入り口は複数あります。一般の見学者が利用するのは、大手町駅のすぐ目の前の「大手門」、竹橋駅から近い「平川門」、国立近代美術館の目の前の「北桔橋門(きたはねばしもん)」と3ヶ所。大手門は東京駅から歩いても15分ほどなので、なかなかアクセスは良いです。

今回は国立近代美術館・国立公文書館と合わせての訪問であったので、北桔橋門から入ってみることにしました。巨大な石垣の上を、門までの道が続いています。

入園は無料ですが、門の手前で持ち物検査があります。ちょっと緊張しますが、カバンの中身を見せるだけなのでささっと終わります。

随所に感じる江戸城の面影

園内を散策していると、あちこちに江戸城の遺構を見ることができます。それぞれ案内板も立てられており、とってもわかりやすい。

突然現れる石室。古墳のように納棺の場所ではなく、火事を避けるために調度品などを収めていたと考えられています。

木の陰に見える建築物は富士見多聞。多聞というのは城郭の上に建てられた長屋のことで、倉庫や武器庫としても利用されていました。内部に入ることができるようですが、訪れたときには公開終了となっていました。

小さな石碑に書かれているのは松の大廊下跡。かつてここには畳敷きの大きな廊下が延びていました。赤穂浪士討ち入りのきっかけとなったエピソードは有名ですよね。

大手中之門の手前にある百人番所では、20人の与力と100人の同心で構成される鉄砲百人組が務めていました。この鉄砲百人組は、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、それぞれ交代で努めていたそう。

百人番所を抜け、大手中之門をくぐるとすぐに見える大番所。位の高い武士が勤務し、警備を行っていたそう。この建物は昭和43年(1968年)に復元されたものです。

迫力の天守台

様々な遺構が残る中でも、気になるのは天守跡。北桔橋門のすぐ近くにある石垣の台こそが、かつて天守が置かれていた天守台なのです。

天守台の上は広場になっており、ベンチが置かれています。高さは20mほどなので、それほど眺めが良いわけではありません。

天守台の目の前に広がるのは芝生広場。遊んだり、シートを敷いて寝転んだりと思い思いに過ごしておりますが、かつてここは本丸御殿が立ち並んでいた場所でした。

ところで、なぜ江戸城には天守が無いのでしょうか。

戦乱の世も終わりを告げた江戸時代に建てられた城であり、幕末の争乱でも無血開城が行われ総攻撃は回避。天守が失われる理由として多いのが「明治政府の廃城令」や「第二次世界大戦の空襲」などがありますが、もしそうだとしたら昭和の再建ブームで復活していそうな気もします。

江戸城に天守が無い理由

江戸城の天守の歴史を調べて見ると、50年の間に3度も建て直されていることが記録に残っています。

1度目は徳川家康が始めた天下普請により1607年に完成した「慶長の天守」。2度目は1622年に完成した「元和の天守」。そして、3度目は1638年に竣工した「寛永の天守」。徳川家康、秀忠、家光と将軍の台替わりに合わせるように建て替えられていたようです。

3つ目にあたる寛永の天守の高さは60m、本丸と合わせると80mにも及ぶ巨大な天守で、日本一の高さを誇っていたそう。園内の本丸休憩所増築棟には、寛永期の天守を1/30スケールで再現した江戸城天守復元模型が公開されています。

そんな立派な天守も、竣工から20年後の明暦の大火にて焼失してしまいます。もちろん天守の再建計画が立てられましたが、これは中止となります。

その理由というのが、軍事的な意味を無くした天守の再建よりも町の復興を優先させたためといわれています。江戸幕府がその後200年も続いた理由は、このような様々な局面で常に現実的な判断を採用していったからだったりするのでしょうかね。

なお、先ほど写真を載せた現在の天守台は、明暦の大火で「寛永の天守」が焼失した後、万治元年(1659年)に加賀藩によって築かれたもの。天守台は造ったのに、結局天守再建はなされなかったのです。

天守を再建しないという江戸城の姿勢を見た諸藩は、この明暦の大火以降は遠慮して天守の造営を控えることになっていったそうです。例えば盛岡城では、天守再建にあたり幕府へ配慮して「天守」ではなく「御三階櫓」という名称にしていたりもしました。

天守の代わりとなったのは

園内の南部に静かに佇むのは富士見櫓。「櫓」ではありますが、高さ16mにも及ぶ立派な三重の建築。天守と呼んでも差し支えないほど重厚な姿です。

この富士見櫓、明暦の大火で「寛永の天守」が焼失してからは、天守として活用されていました。後に関東大震災にて破損するもセメントで修復、さらに皇居東御苑公開にあたりセメントから漆喰に仕上げられ現在に至ります。

内部は非公開となっており、フェンスがあるため近づくことはできません。かつては櫓から富士山や品川の海を見ることができたそうですが、ビルが立ち並び景色が変わってしまった現在はどんな景色が広がっているのでしょうか。

バリエーション豊かな植物

さてさて、江戸城の遺構はもちろんですが、各所に植えられた様々な植物も見どころのひとつ。城跡めぐりを楽しみながら、少し植物にも目を向けて見るとより東御苑を楽しむことができます。

小さな竹林では日本と中国のタケ・ササが13種類もそろっています。縛られたような姿のキッコウチク、色味が鮮やかなギンメイチク、黄色みが強いキンメイチクなど、見比べて見るとかなり個性的。

たわわに実ったキシュウミカン。他にもエガミブンタン、サンボウカン、クネンボ、など呪文にしか聞こえないような果樹。

ここは果樹古品種園。呪文に見えて不思議な名前の果樹は、かつて食用として栽培されていたものなのです。

柑橘類だけでなく、ヨツミゾ、ギオンボウ、ゼンジマルなどのカキも。こちらもやっぱり呪文にしか見えません。

他にも、園内各地にはサクラ、バラ、ハナショウブなど非常に多数の植物が植えられています。季節に合わせて様々な花や果実を楽しむことができるスポットなのです。

見学時間には注意

他にも園内には二の丸雑木林、ヒレナガニシキゴイが放流されている池、三の丸尚蔵館(※令和5年秋まで休館中)など多数の見どころがありますが、このあたりで時間切れ。園内を全部まわるには、1時間ではちょっと足りなかったですね。

「富士見多聞」や「江戸城天守復元模型」など、閉園時間より前に閉鎖してしまう箇所が多いため、あまり閉園ぎりぎりでの訪問はおすすめしません。

閉園時間がせまると速やかな退場を促されます。それ自体はよくある光景なのですが、ここで気になるのはそれを対応しているのが警察官&パトカーということ。出口となる門を抜けるまで、後ろから少しずつ迫ってくるため、かなりのプレッシャーを感じます!!

警察に追われるという非常にレアな体験ができる場所でした・・・!

アクセスと営業情報

どこから入るかによって最寄り駅は変わってきます。どこで入ってもそれほど差はなさそうなので、前後の目的地を考えて決めるのが良さそうです。

・大手門:大手町駅から徒歩3分、東京駅から徒歩15分
・平川門:竹橋駅から徒歩5分、九段下駅から徒歩15分
・北桔橋門:竹橋駅から徒歩5分、九段下駅から徒歩15分

公開時間 3月1日~4月14日:9:00~17:00(入園は16:30分まで)
4月15日~8月末日:9:00~18:00(入園は17:30分まで)
9月1日~9月末日:9:00~17:00(入園は16:30分まで)
10月1日~10月末日:9:00~16:30(入園は16:00分まで)
11月1日~2月末日:9:00~16:00(入園は15:30分まで)
休園日 月曜、金曜
料金 無料
公式サイト https://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html

※掲載の情報は2022年11月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。

コメント

  1. […] また、もう一つ頭に浮かぶのが江戸幕府への配慮。幕府の中心である江戸城では、1657の明暦の大火で天守が焼失後、再建されることがありませんでした。これ以降、全国各地のお城では天守の造営を取りやめにするという例がいくつか挙がっています。八代城も同じように遠慮したのではないでしょうか。(※江戸城で天守が再建されたなかったことについてはコチラの記事にて) […]

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