長い旅から帰還した潜伏キリシタンたちの信仰の証『浦上天主堂』(長崎市)

長崎県

多くの教会が登録され、話題となった世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。この浦上天主堂はそこには含まれていませんが、潜伏キリシタンの歴史を語る上で外すことのできない教会です。この教会を望んだのはどんな人々であったのか?造られた経緯は?この場所が選ばれた理由とは?知れば知るほど非常に大きな意味を持つ教会であることがわかってきます。

2021/5/5(水)

街を見下ろす教会堂

平和公園のすぐ近く、街中にそびえる大きな教会は浦上天主堂。正式名称はカトリック浦上教会という、国内でも最大規模のカトリック教会です。

オレンジ色のレンガ風の外壁、そして緑色の屋根から温かみを感じる外観。1980年の教皇来日に備えて新装工事が行われ、現在の鉄筋コンクリート仕様に変わりました。

教会内部を見学することもできます。青色のステンドグラスが輝く荘厳な空間で、神秘的な空気を感じることができる場所です。

大事件・浦上四番崩れ

この教会を語る上で外すことができないのが浦上四番崩れという事件。

「崩(くず)れ」というのは、禁教令が施行されていた江戸時代において、人目を忍んでキリスト教を信仰していた潜伏キリシタンが特定の地域で一斉に摘発されること。長崎の浦上では計4回の崩れが発生しており、順に一番崩れ、二番崩れといった具合に番付けがされています。

1867年の浦上四番崩れは、一番~三番崩れとは大きく異なっています。まず、それまで数十人程度の規模であったのが、こちらは数千人という大規模なものであったということ。そして、一番~三番が密告であったのに対し、四番崩れで摘発されたキリシタンは仏教式の葬儀を拒否し、自らの信仰を表明していたということ。

この背景には、1864年の大浦天主堂の建設、1865年の「信徒発見」と日本のキリスト教史において重要な出来事が続けて起こり、潜伏の歴史に終わりが見えてきた、時代の変化があります。

大浦天主堂は居留するフランス人のために建てられたもの。この時点では、日本人の信仰が認められたわけではありませんでした。
信徒発見は、大浦天主堂の神父のもとに潜伏キリシタンが集まり、信仰を伝えたという出来事。禁教令下の約260年間、神父不在の中で命の危険に晒されながらも信仰を守り続けてきた人々がいたことは、ヨーロッパでニュースとなりました。

それまでとは異なり公然と信仰を貫くキリシタンたち。幕府の処分が定まらないまま江戸時代が終わり、明治時代に突入します。
しかし明治政府のキリスト教に対する対応は江戸幕府と変わらず。信仰を明らかにした浦上の信徒たちは全員捕縛されてしまいます。村から追い出され、日本各地へと流されるという一村総流罪の刑に処されることとなりました。1868年に114人、1870年には3,280人もの人が各藩へ送られます。

流刑ときくと、現代の感覚では軽い罰に感じてしまいますが、家屋敷や家財は全て没収され見知らぬ土地へ送られるという、命こそ無事ではあったもののそれ以外は全て失うという重罰なのです。更に、流刑先では厳しい拷問や私刑が行われたそうです。配流された3,394名のうち、662名が命を落としてしまいました。

こちらは境内にある拷問石。萩に流された信徒たちは、この上に正座させられ、棄教を迫られていました。

長い旅からの帰還

厳しい処分ではありましたが、信徒たちはこれを「旅」と呼び、自らの信念と神への忠実さを貫くために従っていきました。

西洋各国からの強い抗議もあり、1873年に明治政府は禁教の高札を撤去。約2,700人の信徒たちはこの浦上へ帰還することができます。

旅が終わったとはいえ、家も財産もほとんど無く苦しい生活は続きます。そんな中で信徒たちが望んだのは、教会の建設。かつてキリシタンに対する踏み絵が行われていた庄屋屋敷跡を買い取り、そこに仮聖堂を建てました。これが、浦上天主堂のはじまりです。

世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には登録されていませんが、キリシタンの歴史を語る上では非常に重要な意味を持つ教会なのです。

被爆建造物としての側面

そんな浦上天主堂ですが、1945年にアメリカの落とした原子爆弾によって、石垣だけを残して崩壊してしまいます。12,000人の信徒うち、8,500人という多くの方が命を落としました。

その後、1959年に生き残った信徒たちの手により再建されました。当初は被爆建造物として広島の原爆ドームのように遺構を保存しようという動きもありましたが、前述の通りここは迫害の歴史を乗り越えた証ともいえる場所。信仰の場を別の場所に変えることはできないという意思のもと、一部の遺構を除いて撤去・再建の道をたどりました。

教会そのものは再建されましたが、敷地内には原子爆弾の爆風によって倒壊したかつての鐘楼が残されています。斜めに突き刺さるその姿からは、原爆の威力を存分に伝えています。

さらに天主堂内部には、焼け焦げた頭部のみの姿となった被爆マリア像も展示されていました。黒く深いその瞳は、何かを訴えっているようにも見えました。

原爆遺物展示室

敷地内には、原爆遺物展示室が設置されております。内部には、浦上天主堂の歴史を紹介したパネルや被爆した様々な物が展示されており、原爆の被害をより深く実感することができます。

爆弾の熱風により溶けて変形してしまったステンドグラス。もはやガラスとしての姿は失われていますが、鮮やかな色味は残されています。

こちらは首や腕が落ちてしまったキリスト像。その下には、天使像や聖人像の頭部が多く並んでいます。皆安らかな表情を浮かべているのが印象的でした。


同じく長崎市内にある世界遺産・大浦天主堂に比べると、訪れる人も少なく、あまり観光スポットとして知られていない印象を受けます。しかし、この浦上教会は、迫害の歴史を乗り越えた潜伏キリシタンたちが自分たちの手で造り上げたという、非常に重要な歴史を持っています。ぜひ訪問して、実際に体感してほしい場所です。

読みやすさ重視のため、なるべくシンプルにまとめましたが、浦上四番崩れから天主堂建設の経緯についても、被爆建造物として保存するかどうかの問題についても、もっと詳細な記録が残されています。ちょっと検索するだけでも、非常に多くの記事を見つけることができますので、気になった方はぜひ調べてみてください!

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