甑島列島⑧ 島の南端・手打地区へ『手打麓武家屋敷&下甑郷土館』と『釣掛崎灯台』(下甑島/薩摩川内市)

甑島列島

下甑島の宿屋まるさんかくしかくにて朝を迎えた2日目。本日は朝から手打地区をめぐります!武家屋敷、下甑郷土館、釣掛崎灯台と、下甑島の歴史を感じるスポットを中心にご紹介いたします。

訪問日:2023/11/4(土) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

下甑島の手打地区

下甑島の手打(てうち)地区は、フェリーや高速船の寄港する長浜港よりもさらに南にある地域。下甑島の南端を占めるエリアです。

中心となるのは、手打湾に広がる集落。かつて武士が暮らしていた跡が残る、歴史を感じることができる場所です。

弧を描くビーチ「手打浜」沿いに家々が広がっています。以前はキビナゴの地引き網が行われており、さらには100頭以上のウミガメが産卵のために上陸する姿を見ることができたそう。現在は防波堤が設置され、その結果どちらも見ることはできなくなってしまったとのことです。

手打麓武家屋敷通り

この手打には、上甑島の里(さと)と同じように武家屋敷が集まっています。武家屋敷通りでは約700メートルに渡りが玉石垣がずらりと並んでおり壮観です。

実際のところ、石垣は組み直されたりセメントで補強されていたりとアップデートされているものもちらほら。また、住居自体もほとんどが改築されています。それでも、この石垣の景観はやっぱり情緒があります。

戦国時代に九州にて強大な力を持っていた島津氏ですが、豊臣秀吉に敗れて領地を減らされてしまいます。それにも関わらず武士を減らすということはしなかったため、鹿児島城だけでは武士の生活を賄うことが難しくなってきます。そのため、領国各地の城の周辺に「麓」と呼ばれる武家屋敷を建て、そこに武士を派遣する「外城制度」という仕組みを生み出します。平時は農耕に従事、有事の際は戦いへと参加していたそうです。

2019年、日本遺産 薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~の構成資産として、他の12ヶ所の麓とともに登録されました。

散策していると、たまたま歩いていたおじいさんがいろいろ教えてくれました。実はこの石垣、薩摩藩が作ったわけではないそう。古くは鎌倉時代後期、東京都あきる野市あたりに暮らす武士団が派遣され、築いたものなのです。

下甑郷土館

そんな武家屋敷通りの中にあるのが下甑郷土館。9:00〜17:00で入館無料。月曜、火曜、祝日、年末年始はお休みなのでご注意ください。

1階は小型木造和船や漁業に使用する様々な道具、農業の道具などが展示されています。

内容が濃いのが2階の展示。この写真に写っているのはトシドン。大晦日に子供のいる家々を訪れる仮面の神様です。子どもたちに説教を行い、「良い子になります」と答えると背中に大きなお餅を乗せてくれます。歳をくれる神様でもあるそう。2009年には「甑島のトシドン」としてユネスコ無形文化遺産にも登録、2018年には「男鹿のナマハゲ」や「悪石島のボゼ」とともに「来訪神:仮面・仮装の神々」というカタチで登録されています。

こちらは芙蓉の樹皮から作った布、ビーダナシ。世界に4着しかないうち、2着が展示されています。気になる残り2着は、この郷土館の倉庫に保管されているそう。全てここにありました。

敷地内には復元された武家屋敷も置かれています。かつてはこのような家屋が石垣と共にずらりと並んでいたのでしょうね。

釣掛崎灯台

下甑島の最南端にそびえる灯台、釣掛崎灯台。手打集落から約3km、長い下り坂をおりていくと駐車スペースとベンチ、案内板があります。

そこから100段ほどの階段を降りていきます。灯台を見下ろす感じがまた良いですね。

地上高は16.5m、水面からは146.1m。明治29年にレンガで造られましたが、太平洋戦争で破壊されてしまいます。現在の灯台は昭和26年に再建されたものであるそう。

キリシタン殉教地

釣掛崎灯台からすぐ近くにあるキリシタン殉教地。手打青瀬地区で信仰を続けていたキリシタンが捕らえられ、命を落とした場所です。

名も知られず殉教した人々の勝利と栄誉を賛えるために石碑が建立されました。

この場所、駐車場はありませんが、石碑の前になんとか1台だけ停められます。手打集落に引き返す場合は転回することになるため、大きい車ですと少々厳しいかもしれません。

このあとは手打から北へと進み、下甑島を代表する人気の観光スポット「瀬尾観音三滝(せびかんのんみたき)」へと向かいます~!


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