長島に渡り、愛生園歴史館でその差別・偏見の歴史を学んだのが前回までのおはなし。今回の記事では、収容桟橋・監房・十坪住宅などをめぐり、当時の入所者の暮らしを感じ取って行きます。
収容桟橋と回春寮
愛生園歴史館のすぐそばにあるのが収容桟橋。ハンセン病の患者は、通常とは異なる車両で岡山駅まで移送、護送車によって虫明港まで運ばれ、専用のボートでこの島まで連れてこられました。家族とともに訪れた入所者は、ここで最期に別れを告げる場所であったそう。
桟橋の傍に建つのは、回春寮と呼ばれる収容所。連れてこられた入所者は、ここで裸にされて番号札を持った写真を撮られます。その後は見張られながら消毒風呂に15分入れられます。現金などの持ち物の多くも、ここで取り上げられてしまいます。
私は外観しか見ておりませんが、Google Mapのクチコミを見ていると内部に入ることもできたようです。内部には簡易ベッドや、消毒が行われたクレゾール風呂などが残されているとのこと。
今でこそ海辺の爽やかなロケーションですが、これから収容され、一生出られない入所者の気持ちを考えると、胸が詰まる思いです。
十坪住宅と監房
こちらの家屋は十坪住宅。患者作業によって造られた住居です。約150棟建てられましたが、現在は5棟が残されています。
定員を遥かに超えた人数が収容された愛生園は、建築資金を寄付で募る「十坪住宅運動」を行います。
当初は結婚した夫婦が入居するための住宅でしたが、それでも住居が足りず、やがては5~6人が共同生活を強いられていたそう。なお、結婚しても、子供を持つことは許されておりませんでした。
こちらは監房の跡。秩序維持のために造られた施設ですが、逃走者が入れられるケースが最も多かったそう。収監された場合、1日2食に制限され、治療も一切行われなくなります。入所者にとって威圧的で恐ろしい場所であったのです。
恵の鐘と長島事件
海抜60mほどの高台、光ヶ丘には、恵の鐘が設置されています。入所者と職員の手で造られたもので、朝夕6時にそれぞれ6回鳴らされているそう。
雨の日も風の日も、担当者は責任を持って鐘を鳴らしていました。今では自動化され、一定の時刻に規則正しく音を響かせています。
1936年、入所者たちによる史上最大規模の抗議行動である「長島事件」がおこります。日々の過酷な労働と劣悪な食事環境、そして園の一方的な管理体制に対して、入所者たちが団結。ついには全作業のストライキ(ゼネスト)に突入し、「自治の確立」「園長の辞任」などを求めて立ち上がりました。
代表者らはこの「光ヶ丘」に集結し、抗議の意志として鐘楼の「恵みの鐘」を昼夜問わず打ち鳴らしました。この鐘の音は、苦難の中で人間の尊厳を守ろうとする声そのものでした。
事件は、政府や警察の介入を経て、17日間の交渉の末に収束します。最終的に「自助会」の設立が認められ、わずかながらも入所者の自治が制度として残されることになります。しかし、事件後は職員と患者の間に深い溝が残り、陰湿な報復や差別も続きました。
人間回復の橋
長島と本土をつなぐ邑久(おく)長島大橋。様々な歴史を学んだ後だと、この橋が一般的な架橋よりもさらに深い意味を持つことを強く感じます。
偏見の壁で実現しなかった架橋ですが、1985年に工事がスタート、1988年ついに完成。57年間隔絶された島が本土と結ばれた瞬間でした。人間としての尊厳や自由を求めた入所者は、この橋を渡り帰郷していきましたが、高齢や後遺症により、島を出ることができなかった人も大勢いるそうです。
隔離時代の終わりを象徴するシンボルであり、通称「人間回復の橋」とも呼ばれています。
有効な治療法のない伝染病であった頃から、「治る病」「感染力は低い」ということが明らかになってからも続いた偏見と差別。遠い昔の話に感じますが、近年の新型コロナウイルスの際も、偏見と差別の片鱗は見えていたように思えます。
本当に、偏見のない社会へと歩み出せているのか、考えさせられる島旅でした。
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