戦国武将・真田幸村ゆかりの神社『真田山 三光神社&真田丸跡』(大阪市天王寺区)

大阪府

大阪市天王寺区にある真田山三光神社は、大坂の陣にて活躍した戦国武将・真田幸村にゆかりのある神社。かつてこの一帯には真田の名を轟かせた「真田丸」があったとされています。境内には「真田の抜け穴」も残っており戦国ロマンを体感できる場所です。

訪問日:2025/10/19(日) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

歩んできた長い歴史

玉造駅の近くに立つ三光神社は、反正天皇の時代(406年~410年頃)の創建と伝わる非常に長い歴史を持つ神社。当初は「姫山神社」という名でしたが、明治時代に仙台の三光宮を勧請。社名も「三光神社」に変わりました。

境内入口となる鳥居。よく見ると、鳥居のすぐ手前に高さ1mほどの石の柱が立っています。

進んだ先にある鳥居もまた、石の柱が立っています。こちらは鳥居とほぼ同じ高さ。

これらは損壊してしまった鳥居の一部。この神社は1945年の空襲で焼失してしまいます。無事復興を成し遂げた今でも、悲惨な戦争を忘れないためにこの場所に残しているそうです。

三柱を祀る神社

鳥居を2つくぐった先に立つ御社殿。御祭神は、天照大神、月読尊、素戔嗚尊。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも呼ばれています。

末社として、仁徳天皇社・武内宿弥社・野見宿弥社・主守稲荷社を祀っています。このうち武内宿禰は長寿であったことから七福神のうちの寿老人と同一視されています。

境内には寿老人像も建立され、大阪七福神(浪速七福神)の一つにも数えられています。

真田丸との関係性

気になるのは「真田山 三光神社」という名称からも感じる、戦国武将・真田氏との関連性。神として祀られているのかと思いきや、先ほどの御祭神の中に真田の名はありませんでした。

1614年と1615年にかけて行われた、豊臣秀頼 vs 徳川家康の戦い「大坂の陣」。1614年の「冬の陣」の際、戦国武将の真田幸村は大坂城の先に「真田丸」という砦を築きます。大坂城の南側の弱点を補い、少ない兵力で徳川方の大軍を撃退。真田の武勇を轟かせます。

この神社がある辺りがその跡地であるため、この神社は真田ゆかりの神社とされているのです。

境内には、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた陣中指揮姿の真田幸村の像も建立されています。

この像の台座に使用されている石は、信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石。「真田石」と名付けられています。

真田の抜け穴

境内にあるこちらの洞窟。まるで古墳の石室のようですが、ここは真田の抜け穴と呼ばれています。

大坂の陣の際、真田幸村がこの場所に偃月城(えんげつじょう)と名付けられた出城を築き、ここから大坂城まで地下道を掘っていたという伝説が残っているのです。

そんな抜け穴ですが、11月3日の真田まつりにて扉が開放されます。

通常時でも、格子の隙間から中を覗くことは可能!現在、穴の奥は詰まっているような雰囲気です。

実際に大坂城までは繋がっていないらしく、ここは伏兵が潜むための「武者隠し」という説があるそう。また、真田幸村が造ったものではなく、前田利常軍の塹壕の痕跡という説も。もし後者であるならば、真田にとっては敵方の遺構ということになってしまいますね。

真田を祀る心眼寺

真田三光神社に来たら、真田ゆかりの寺院・心眼寺への参拝もおすすめ!神社から徒歩5分ほどでアクセスできます。

ここは元和8年(1622年)に海野氏の発願により、大坂夏の陣で戦死した真田幸村とその子である大助の冥福を祈るため創建されたお寺。山門の扉には、真田家の六文銭が寺紋として記されています。

さらに門の前には「真田幸村出丸城跡」の石碑が立っています。この場所こそが、大坂冬の陣で幸村が築いた「真田丸」の跡地であるそう。

お寺の目の前にある大阪明星学園のグラウンド前にも真田丸顕彰碑が建てられています。

大坂の陣や第二次世界大戦といった戦火に見舞われた土地ですが、今は静かな住宅街。時の流れとともに、平和な時代の訪れを感じるスポットでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました