かつて鉱山都市として大いににぎわいを見せた別子銅山。多くの産業遺跡が残る中でも、シンボルと呼べるのが東平ゾーンに残る索道基地跡&貯鉱庫跡。山上に広がる石積みの姿は、「東洋のマチュピチュ」とも形容されています。
山の中の東平ゾーン
マイントピア別子の本館や観光坑道のある「端出場(はでば)ゾーン」。今回訪れた「東平(とうなる)ゾーン」は、そこから更に奥へ進んだところにあります。
端出場ゾーンからの距離は約10kmと、車ならば20~30分ほどの距離。なのですが、道幅はかなり狭いです!
すれ違い困難な箇所も多いので、山道でのバックに慣れてない方、大きい車の方、そして繁忙期に訪れる方はご注意ください。(ちなみに、私は12月の平日13:00頃に訪問したところ、すれ違いはゼロでした。)
運転が不安な方は、端出場ゾーン発の定期観光バスツアーもあります!基本的に11:00と13:00の1日2回運行で、見学時間は60分、往復の移動合わせて約2時間のコースとなります。(平日は5名以上で運行、土日祝は1名から運行)
階段を降りて巨大遺跡へ
東平ゾーンにはいくつもの産業遺跡が眠っていますが、一番メインとなるのが「索道基地跡」と「貯鉱庫跡」。
駐車場から周囲を見渡してもそれらしいものの姿は見当たりません。どこにあるのかなと、下を見下ろしてみると、2つ並んだ大きな建物の遺構を見つけました!
この2つを見るには、駐車場から220段の階段を降りていきます。この階段は、かつて利用されていたインクラインの跡を利用したもの。(※インクライン=ケーブルカーのこと)
貯鉱庫跡と索道基地跡
最初に見えてくるのが貯鉱庫跡。坑内から運び出された鉱石はここに蓄えられていました。明治時代に造られた施設で、花崗岩が積み上げられた重厚な外観がインパクト抜群です。
一番下まで降りると、目に入るのは索道基地跡。索道というのはロープウェイのこと。貯鉱庫に蓄えられた鉱石は、ここからワイヤーを伝って麓まで運び出していたそうです。
当初は黒石まで3,575m、昭和初期には少し短縮されて端出場までの2,717mの距離を索道が走っていたそう。
近くに立てられた案内板には、当時の写真が掲載されています。このようなトロッコみたいなゴンドラに積み込んで送り出していたのですね~。鉱石の運搬だけでなく、鉱山で暮らす人々の物資や生活用品なども輸送されていたそうです。
東平歴史資料館
ここ東平には大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)の期間には採鉱本部が置かれており、全盛期には5,000人もの人々が暮らしていたそう。
今ではとっても静かな山の中ですが、どんな風ににぎわっていたのでしょうか?駐車場のすぐ隣にある東平歴史資料館では、そんな当時の様子を体感することができます。周囲の産業遺跡とよくなじむ、石積みの外観が素敵です。
まるで棚田のように斜面に広がる家屋の模型。共同浴場や共同水場のおかげで家族的な雰囲気であったそう。外出する際も鍵をかけることすらなかったというエピソードも。
娯楽場も造られていました。キャパシティは2,000人となかなかの規模です。立てられている幟には歌舞伎役者の名前が記されております。ここでは本格的な上方歌舞伎が上演されていたとのこと。
シアタールームでは、実際に東平で育った人の話も聴くことができます。映像とはいえ、生の声は非常に説得力ありますね。
今回は時間の関係でメインとなる「貯鉱庫跡」「索道基地跡」「東平歴史資料館」に絞って見学しましたが、他にも火薬庫跡、通洞跡、採掘集落の復元などもあります。
時間に余裕がある方は、じっくりと散策してみてもいろいろな発見がありそうです。
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