喜界島 Part 4 サトウキビの一本道からムチャ加那伝説へ(喜界町/奄美群島)

喜界島

レンタルバイクでめぐる喜界島。空港からまずは北部へと向かい「サトウキビの一本道」「東日本大震災漂流漁船」「雁股(かりまた)の泉」「ムチャ加那公園」とめぐります。歴史と伝説を感じることができるスポットです。

<前回>

喜界島 Part 3 おしゃれで清潔感あふれる一棟貸宿『わんやぁー』(喜界町/奄美群島)
1泊1名から宿泊できる一棟貸しの宿泊施設。広々としたお部屋と整った設備でお値段以上の価値を感じます。空港からも港からも徒歩で行けるアクセスの良さもポイントです。
訪問日:2024/9/25(水) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

サトウキビの一本道

奄美大島からフェリーで夜に到着した喜界島。「わんやぁー」という一棟貸しの宿に泊まり、空港売店でレンタルバイクを借りたまでが前回までのあらすじ。

一番最初に向かったのが、島の北部にあるサトウキビ一本道。名称そのままサトウキビ畑の中を突っ切る、約3キロのストレートな道です。

こんな道をバイクで走れるなんてさいっこうです!!!!

フォトスポットとしても人気で、みんなでジャンプしたりして撮るらしいです。

近くには土地改良の碑も建てられています。昭和38年、この地では水田跡地を畑へ改良する「奄美群島復興事業」を導入。その後、土地開発が進み島の大部分がサトウキビ畑となっていきました。

横たわる謎の小船

海岸沿いに置かれた小さな船。知らないと素通りしてしまいそうな光景ですが、この船には大きな秘密があります。

こちらは東日本大震災漂流漁船。その名の通り、2011年3月11日に発生した震災と深い関わりのある船なのです。

この船は宮城県気仙沼の漁船であり、震災発生から1年以上が経った2012年5月に、なんとこの喜界島まで流れついたそうです。

日本列島の太平洋側には、南から北へ流れる海流・黒潮が流れていますが、それと逆に黒潮反流と呼ばれる流れがあると聞いたことがあります。この船もその流れに乗って、1600km以上も離れたこの地までたどり着いたのかもしれません。

源為朝伝説残る泉

島の北部にある小野津集落にある雁股(かりまた)の泉。コイが泳ぐ静かな泉ですが、ここは源為朝にゆかりがあるスポット。

崇徳上皇と後白河天皇が皇位継承をめぐる争いに、源氏と平氏といった武士が関わった保元の乱。戦に敗れた源為朝は、伊豆大島に流されるも伊豆諸島を支配してしまいます。そんな為朝に対して朝廷は追討軍を派遣。これを見た為朝は自害してしまいます。

この為朝という人物は伝説が多く残っており、自害せずに伊豆諸島から琉球まで逃れたという伝説も。琉球へ渡る途中に喜界島の近くを通り、住民の有無を確かめるため船上より雁股(かりまた=先が二股に分かれた矢じり)の矢を放ったといいます。

そのときに地面に刺さった矢を抜いたところ清水が流れ出て、この泉になったという伝説が残されているそう。

源為朝は弓の名手であったことから放った矢に関する伝説が日本各地に多数残されています。また、歴史に残る最初の切腹を行った人物ともいわれています。

ウラトミとムチャ加那

雁股の泉の近くにあるムチャ加那公園。高台に位置しており、眺めの良い開放的な公園です。

園内にあるムチャ加那の碑には、ムチャ加那物語が刻まれています。要約するとこのような感じです。

昔、瀬戸内町生間(加計呂麻島)にウラトミという村一番の美人が暮らしていました。薩摩から来た役人がウラトミを島妻にしようとするも、彼女はこれを拒否。怒った役人は生間集落の年貢を重くするなどの嫌がらせを行います。ウラトミの両親は彼女を小舟に乗せて流してしまい、漂流の末たどり着いたのが喜界島の小野津集落。ウラトミはここで結婚して、ムチャ加那という娘を産みます。ムチャ加那は、母に勝る美人であったそうです。

ここに記されているのはここまで。このムチャ加那はその後、美しさを妬まれ崖から突き落とされこの世を去ってしまう、という悲しいエピソードが残っていたりもします。

なお、園内は巨大な樹木がずらり。紐のようにたれる気根から、きっとガジュマルだと思います。

次回も引き続き島内めぐり!「平家上陸之地」「ミヤの跡」「サンゴ礁科学研究所」「震洋格納壕跡」の順でめぐっていきますね!

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