超巨大な砂のアートは何のためにつくられた?『銭形砂絵(寛永通宝)』(観音寺市)

香川県

琴弾公園の砂浜に描かれた巨大な寛永通宝。観音寺市を代表する人気観光スポットですが、実は謎に包まれています。何のために造られたのかについて、少し考えてみました・・・!

訪問日:2023/5/5(金) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

巨大な銭形砂絵

「雲辺寺ロープウェイ」や「豊稔池ダム(豊稔池堰堤)」など、様々な見どころのある香川県の観音寺。中でも全国的に知名度が高いのが今回ご紹介する「銭形砂絵」

市砂浜に描かれた巨大な砂絵で、その大きさは東西122m・南北90m・周囲345m。円形に見えますが、実は楕円形であるそうです。

描かれているのは寛永通宝。江戸時代前期にあたる寛永13年(1636年)に鋳造された貨幣です。

この「寛永13年(1636年)」という数字、あとで重要になるので覚えておいていただけると嬉しいです。とりあえず、「一郎三郎(1636)寛永通宝」という語呂合わせを置いておきますね!

ビューポイントは銭形展望台

琴弾山山頂には展望台が設置されており、高い位置から見渡すことができます。

展望台は西向きに設置されています。そのため、日没近くに訪れると西日が射し込み神々しい姿に。日が沈むとライトアップも行っているので、遅めの時間帯に訪問するのはなかなか良さげです。

この展望台は駐車場があるため、車で気軽にアクセスできます。ただし、台数はそれほど多くないので連休中は混雑することも。展望台までの道は一方通行なので、一度向かってしまうと途中でUターンして断念することができなくなってしまうのでご注意ください。「道の駅ことひき」や「琴弾公園」から徒歩で登っても15分ほどなので、混雑時は要検討です。

今回GW期間中の14:30頃に訪れたところ、展望台までは30分以上待ち。時間をずらして17:30頃に向かったところ、すんなりとアクセスできました。

近くで見るとどうなる?

展望台からの写真は旅行雑誌やWebサイトでもお馴染みですが、地上から見るとどのような感じなのでしょうか?

ということで、琴弾公園内を歩いて砂絵に接近してみました。

当然ですが、砂絵の周りにはロープが張られており立入禁止。

想像通り地上からは貨幣の姿はまったくわかりませんが、その規模を感じることはできます。砂が盛り上がって土台のようになっている姿は、古墳や古代の住居跡といった遺跡の発掘調査現場のようです。

現在も一年に二回、春と秋に数百名の市民が力を合わせて「砂ざらえ(銭形化粧直し)」を行い、大切に保存されています。

寛永通宝推しな観音寺市

観音寺市で寛永通宝を観光資源として活用しております。マンホールに描かれていたり、琴弾公園のトイレや公衆電話にも描かれていたりと、随所でその姿を見かけます。

道の駅ことひきでは「寛永通宝クッキー」や「寛永通宝もなか」も販売。「世界のコイン館」という小さなミュージアムも併設されています。

また、平成22年(2010年)4月4日より、市内の地域通貨として寛永通宝を使用できるようになったそう。1枚30円という扱いになるそうですが、寛永通宝は多数の種類がありその価値は大きく異なります。10円程度から、レアなものでは30万円になるものもあるので、もしかしたら大損になってしまうかもしれませんね。

何のために造られたのか

なんとなく昭和の町おこし事業のような感じがしますが、この砂絵はいったい何のために造られたのでしょうか。

案内板には「寛永10年(1633年)に、丸亀藩主の生駒高俊が領内巡視のためにこの地に訪れた際、歓迎の気持ちを現わすため一夜にして作りあげた」といった内容が書かれています。

ここで気になるのが造られた年。冒頭で書いた「一郎三郎(1636)寛永通宝」を思い出してください!

そう、寛永通宝が鋳造されたのは寛永13年(1636年)と、砂絵より後になってしまいます。発行の3年前に描くことができたのかと問われると、急に信憑性が低くなってしまいますね。寛永通宝発行の情報が3年前から出回っていた、というのはちょっと苦しいでしょうか。

「造営した当初は寛永通宝ではなかった」なんて説はどうでしょうか。その頃流通していた【永楽通宝】で作成、後に寛永通宝発行に伴い文字を書き換えたなんてパターンが考えられます。生駒高俊への歓迎の気持ちを貨幣で表す、という点に違和感があるならば、当初は【生駒氏の家紋】であったとすれば筋が通ってきそうです。

寛永17年(1640年)に生駒家では「生駒騒動」というお家騒動がおこり改易に。その後は山崎氏が藩主となります。生駒氏の家紋のままではまずい、ということで当時発行されたばかりの【寛永通宝】に書き換えたのではないでしょうか。

いや、そこは山崎氏の家紋にすれば良いのでは、と感じますが、生駒氏→山崎氏と藩主が代わる間には隣国である西条藩・大洲藩・今治藩による分割統治を挟みます。そのため、書き換え先に迷いが生じたのでしょう。

そして、山崎氏の家紋が「檜扇に四つ目結」という、円形ではなく扇形の複雑な紋であるため、単純に書き換えが難しかったなんてことはないでしょうか。

・・・と、いろいろと仮説を立ててみましたが、いずれも私の妄想です。調べて見ると、「当初は豊臣氏の瓢箪紋だったが、寛永10年に江戸幕府の巡検使が来ることを知って一夜で作り変えた」といった説もあるようです。豊臣への忠義を表していたというのは夢がありますが、このままだと寛永通宝のデザイン前借り問題が未解決な気も。

いろいろと考える余白があるこの銭形砂絵、皆さんもぜひ考察してみてはいかがでしょうか。

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