悲劇の忠臣・護佐丸が築いた『座喜味城跡&ユンタンザミュージアム』(読谷村)

沖縄県

読谷村に築かれた軍事拠点で、ゆるくカーブを描いた石垣が非常に美しいグスク跡。この城の築城主である護佐丸は、忠義を貫いて命を落とした将として知られています。いったいどのようなストーリーがあったのでしょうか?

訪問日:2022/3/25(金)

中世のグスク跡

読谷村にある中世の城跡・座喜味城跡は、リュウキュウマツの林を抜けた先にあります。

15世紀初頭に護佐丸(ごさまる)によって築かれた城で、北部の北山勢力を監視する目的で造られた完全なる軍事拠点。そのため、通常のグスクにはあるはずの御嶽もありません。

沖縄戦の際には高射砲が置かれて砲台へ、アメリカ軍に占領されるとレーダー基地として利用されました。
1972年に沖縄の本土復帰すると、その翌年から発掘調査や修復が行われ、2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されます。

うねるように連なる石垣の城壁が非常に美しい城跡です。

見応えのある城跡

アーチ状のゲートは、よく見ると中心にくさび石という石がはめ込まれております。これによって耐久性が高められているそう。

門をくぐると左に道がありますが、ここは罠。武者隠しと呼ばれる防衛機能で、ゆるやかな下り坂の果てに袋小路となっています。うっかりそちらに進むと、行き止まりに詰まったところを城壁から攻撃を受けてしまいます。

進んでいくと広場。礎石が置かれており、かつて大きな建物があったことが伺い知れます。

石垣の一部には階段が設置されており、上に登ることができます。見晴らしもよくて爽快!天気が良いと、真栄田岬や伊江島、慶良間諸島まで見渡せるそうです。手すりなどはありませんので、風が強い日は落っこちないようにご注意くださいね。

忠義を貫いた護佐丸

せっかくなので、護佐丸とはどういう人物であったのか、簡単にまとめてみました。

護佐丸は恩納村にある山田城主の三男として生まれます。時は三山時代という、北山・中山・南山という3つの王国が争っておりました。

尚巴志(しょうはし)のもとで北山攻略にて武功をあげ、右腕として重宝されるように。1422年頃に北山に残る勢力を監視するために座喜味城を築城、そこに居を構えます。

尚巴志は中山王となり、さらに1429年には南山を滅ぼし琉球統一を達成。沖縄初の統一王朝を築きあげ、文字通り琉球国王に。護佐丸もその忠臣として力をつけます。

その後、勝連の有力者である阿麻和利(あまわり)を監視するために中城城を築城、拠点を移します。

ここで護佐丸・阿麻和利の乱という事件がおこります。阿麻和利は当時の国王である尚泰久(しょうたいきゅう)に「護佐丸が中城城で謀反を企てている」と告げ口をします。これを信じた王は、阿麻和利に中城城を攻めさせます。

謀反を疑われた護佐丸は、抵抗することなく自刃。戦わないことで自らの忠義を見せました。

なお、阿麻和利はその後、尚泰久王を狙いますが失敗に終わり討ち取られてしまいます。

この護佐丸・阿麻和利の乱の流れについて「護佐丸は実際に反乱を起こそうとしていた」「阿麻和利に謀反の意思はなかった」といったような様々な説があります。

ユンタンザミュージアム

1975年に開館した読谷村歴史民俗資料館が2018年にリニューアルオープン。世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアムとして生まれ変わりました。

座喜味城はもちろん、周辺の遺跡からの出土品、やちむんの里の原点である喜納焼、明暗分かれたチビチリガマとシムクガマ、さらには現代の読谷村についてと幅広い展示内容で非常に見応えがあります。

民俗文化に関する展示も豊富で、農具や漁具といった民具の数々、織物、再現された伝統家屋も。

興味深いのは「人の一生」というパネル展示。「ハジチ(針突)」と呼ばれる10代前半に行われる入墨や、風車を持ってパレードを行う97歳のお祝い「カジマヤー」など、誕生からその生涯を終えるまでに行われる儀式が一覧になっています。様々なお祝い事が一連の流れで見れるのが非常に面白かったです。

記事では最後に紹介させていただきましたが、座喜味城へ行く前に訪問した方が、城跡をより深く楽しめそうです!

アクセス情報

那覇空港より沖縄自動車道経由で約1時間。

座喜味城跡周辺の道路は一方通行となっています。駐車場を逃すと、またぐるっと回ってくる必要がありますので、事前に駐車場の位置を確認してからの訪問がおすすめです。

※掲載の情報は2022年4月時点のものです。最新情報は公式HPにてご確認ください。

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