日生諸島④ 長島 Part 1 愛生園歴史館で知る差別と偏見(瀬戸内市)

日生諸島

かつてハンセン病の隔離政策が行われていた離島。島内には歴史館が立ち、その悲惨な歴史を今に伝えています。まずはこちらに赴いていろいろ学ぶことにしました。

訪問日:2025/5/9(金) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

長島ってどんな島?

岡山県瀬戸内市に属する長島(ながしま)は、日生諸島に属するとされたり、されなかったりする島。

この島は、1930年に日本初の国立ハンセン病療養所が開設された、特異な歴史を持つ島。現在も国立療養所長島愛生園と国立療養所邑久光明園という、2つの療養所が立ち並んでいます。

離島ではありますが、邑久(おく)長島大橋で繋がっているため、車でアクセスできます。

歴史を伝えるミュージアム

島内に入り、まず向かったのは愛生園歴史館。事務本館を活用した資料館であり、ハンセン病の歴史を学ぶことができるミュージアム。島内のスポット紹介もあるので、最初に訪れるのがおすすめです。

入館は無料、開館時間は9:00~16:00(月曜休館)。平日は空いてないこともあるそうなので、電話予約するのが良さそうです。今回は平日の13:00頃に向かったところ、ラッキーなことに開いておりました。

まずは15分ほどのビデオから。島の歩んできた歴史解説を見ることができます。

ハンセン病と治療の歴史

あまり耳馴染みのないハンセン病。いったいどのような病なのでしょうか。

ハンセン病は、抗酸菌によって引き起こされる慢性の感染症。皮膚とともに末梢神経に異変が生じ、運動機能の麻痺や感覚麻痺などを引き起こします。「らい病」と呼ばれていましたが、差別的な意味合いが強いため原因菌の発見者であるハンセン博士の名を取り「ハンセン病」と呼ばれるようになりました。

当初、治療には大風子油(たいふうしゆ)が利用されていましたが、あまり効果はなく、有効な治療法が見つからない状況でした。

1947年に日本でも特効薬であるプロミン治療が始まり、治癒できる病気に。1971年にリファンピシンという特効薬が使われるようになると患者数は激減、後遺症も残すことなく治療できるようになります。

現在は完全に治癒できる病気。現在療養所では、薬がなかったときの後遺症が残り、看護・介護が必要な方々が入所しているそうです。

隔離政策と差別

治療法が確立される以前、感染病として恐れられていたハンセン病。同時に、患者に対する差別・偏見が行われていました。

その差別・偏見の原点とも呼べるのが1929年の「無らい県運動」。らい病を無くそうという運動かと思いきや、らい病患者のいない県を作ろうと、各県が競って患者を強制収容するというものでした。この際にらい病は恐ろしい伝染病と宣伝され、これにより患者に対する差別は一層強まってしまいます。

1931年に「癩(らい)予防法」が制定され、全ての患者が隔離対象に。その前年にここ長島には、長島愛生園が開園。知識や技術を持った患者「開拓患者」を筆頭に、多数の患者が船で強制的に入島させられていました。

1953年、癩予防法が改正された「らい予防法」が公布。このときには治療法が確立していたにも関わらず、隔離政策はそのままでありました。患者に対する差別や偏見は、1996年の法律廃止まで続けられます。

歴史を物語る展示物

館内ではパネルや実物を交えて、そんな差別・偏見の歴史を学ぶことができます。

こちらは、当時の長島のジオラマ。様々な施設や、強制隔離政策下で暮らしていた狭小住宅「十坪住宅」がずらりと並んでいます。

ここは1955年当時の園長室を再現した部屋。この事務本館および、この部屋は入所者が立ち入りを禁止されていた場所。そこを開放していることに意味があるとも。

ずらりと並んだ楽器は「青い鳥楽団」のもの。目の不自由な入所者を中心に作られた楽団で、入所者に生きる希望をあたえていました。

平成まで続く差別意識

様々な事件に関する展示も見ることができます。印象的なのは2003年におこった「宿泊拒否事件」。ホテルが入所者の宿泊を拒否、このことが報道されるとホテルへの批判が寄せられるようになります。

ホテル側は謝罪したものの、責任の所在が不明瞭であり、内容が不十分であったため入所者はこれを受け入れませんでした。すると、今度は入所者を批判する文書が殺到します。

展示されている入所者を批判したハガキは、ヤフコメやXにあふれる批判文とほぼ同じトーンの言葉。20年も前の話ですが、人々の考えはあまり変わっていないかもしれません。

このあとは、島内に残る歴史がつまったポイントをめぐっていきます!つづく。

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