上天草市大矢野島にある、キリシタンの歴史を今に伝える博物館。ジオラマや実写の映像で再現された戦いのストーリーに、一気に引き込まれます。最後には神秘的な瞑想空間が広がります。
休館日:1月、6月の第2水曜、年末年始
料金:600円
※館内撮影禁止。掲載している画像は、購入したポストカードやパンフレットのものです。
教会風なルックス
天草四郎ミュージアムがあるのは、天草諸島の中でも最北に位置する大矢野島。熊本県の宇土半島から天草五橋の1号橋を渡った先に位置しており、天草諸島の玄関口に当たります。
道の駅上天草さんぱーるの目の前にあり、猫の島「湯島」への船が出る江樋戸(えびと)港も1km程度とすぐ近くにあります。
まるで教会のような外観の荘厳なミュージアム。もともとは天草四郎メモリアルホールという施設でしたが、同じく大矢野島に存在したサンタマリア館(閉館)の収蔵品を加えて、2018年に現在の天草四郎ミュージアムにリニューアルしました。
南蛮の風を感じるミュージアム
タイムトンネルをくぐると、そこは南蛮船こと小型ガレオン船のデッキ。フランシスコ・ザビエルや織田信長が現れ、約450年前のキリスト教の伝来の時代へとタイムスリップ。まるでテーマパークのような演出で、一気に引き込まれます。
人形やパネル、ジオラマなどとてもわかりやすい展示が続くので、予備知識がなくても感覚的に楽しめるミュージアム。マリア観音や、十字架が隠された刀の鍔、経消しの壺といった潜伏キリシタン関連の貴重な実物資料も豊富に揃えています。
引き込まれる映像作品
シアタールームでは、16分の映像「わが心の天草四郎」という作品が上映されています。
天草・島原の乱を鎮圧するために出兵していた細川藩の若い侍の視点から見た映像となっており、一揆の凄惨さ、そして天草四郎やキリシタンたちを理解しようと葛藤する人々の心が描かれた心揺さぶる作品です。
武器や食料も無くなる中、それでも原城跡に立て籠もる一揆勢に対して「なぜ降伏しないのだ!これではただの人殺しではないか!」と無益な戦いを憂う姿がリアルに表現されています。
これまで天草キリシタン館、天草コレジヨ館、天草ロザリオ館など多くのキリシタン関連施設で少しずつ学んできた天草・島原の乱ですが、やはり実写ドラマが一番わかりやすい。ここに来たら絶対に見るのをおすすめします。
メディテーションルーム
ミュージアムの2階には瞑想空間が広がっております。天草・島原の乱で命を落とした天草四郎以下37,000名の魂が昇天していく様子をイメージしたというこの部屋は、音と光の織りなす神秘的な空間。シアターで凄惨な戦いの映像を見たあとだと、祈らずにはいられなくなります。
ビーズクッションがたくさん設置されており、難しいこと考えずにただゆったりとリラックスするのにも良い場所です。
丘の上の天草四郎
ミュージアムの裏手を2分ほど登ると、そこには天草四郎像が立っています。右手を天高く掲げており、人々を導いていた天草四郎のイメージにぴったり合致します。
像の周辺に並んでいるのはお墓。実は十字架が刻まれているという切支丹墓碑なのです。人目に付きにくい部分を見ると、うっすらと十字架が刻まれているのがわかります。
このお墓は「隠れキリシタン」の墓碑であることが判明します。天草・島原の乱で大矢野島のキリシタンは全滅したと考えられていましたが、それ以後もこの地に信徒が潜んでいたという証拠となりました。
天草四郎の人物像
このミュージアムのタイトルにもなっている天草四郎。日本史の教科書にも登場し、天草のキリスト教について語る上で外すことのできない重要人物の一人です。覚えやすい名前からか記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。
数多くの小説や漫画、ゲームなどのメディアにも登場し、源義経や沖田総司と並びもれなくイケメンに描かれる人気の高い人物でもあります。せっかくの機会なので、天草四郎について少し調べてみることにしました。
生い立ち
本名は益田四郎といい、この天草四郎ミュージアムのある大矢野島に生まれます。生年ははっきりしておりませんが、1622~1623年頃が有力です。
※出生地は他にも熊本県宇土市や長崎県との説もあります。
天草四郎の父はキリシタン大名であった小西行長の家臣・益田好次。関ヶ原の戦いで小西行長が破れ浪人となり、百姓として暮らすことになります。益田家は比較的裕福であったため、天草四郎は幼いころから学問を学ぶことができました。
天草・島原の乱の総大将に
厳しい年貢の取り立て、飢饉による不作など、過酷な生活に耐えかねた天草・島原地方の人々が起こした反乱「天草・島原の乱」が勃発します。キリシタンたちも多く参加し、一揆勢の人数は37,000人と日本最大の一揆でした。
教養に加えて容姿も端麗であった四郎は、キリシタンたちの間で救世主・神の子としてたたえられるようになり、16歳にして一揆軍の総大将という大役につくことになります。
実際に指揮をとっていたのは別の浪人であったと考えられていますが、それでも年端もいかない少年のもとこれだけの人間が反乱を起こしたという事は、他に例を見ない日本史に残る事件でした。
最期のとき
1637年12月に勃発し、5か月後の翌1638年4月に鎮圧され、終結を迎えます。一揆勢は女子供含めて、全員が命を落とします。
このとき幕府軍は天草四郎の顔を知らなかったため、陣には四郎と年齢が近いであろう少年の首が次々と運び込まれてきました。
幕府軍は捕えていた四郎の母にその首を順番に見せたところ、ある少年の首を見た瞬間、母親が泣き崩れます。それを受けて、天草四郎の首を断定したという話が残されています。
生年がはっきりしていないため享年も定かではありませんが、15~16歳といわれております。日本史に名を残す人物の中でも、特に短い生涯でした。
天草四郎の逸話
謎の多い天草四郎ですが、「盲目の少女の目を治した」「スズメの動きを封じた」など、様々な現象を起こしたといわれています。
「そんなの天草四郎を神格化するための作り話でしょ」と思う方もいるはず。しかし、まだ科学が進んでいなかった江戸時代の日本において、キリスト教とともに入ってきた最先端の西洋医学や科学は、まるで奇跡のように人々の目に映ったのではないでしょうか。
また、その出生についても正確なことがわかっていないため、様々な説が存在しています。
ロマンがあるのが「天草四郎は豊臣秀頼の私生児であった」という説。大坂夏の陣で敗れた豊臣秀頼が薩摩(鹿児島県)へ逃げ延びていたという伝説があるのですが、その際につくった子供が天草四郎であったのではないかという考えです。
天草四郎の馬印が豊臣秀吉と同じひょうたんであったということや、「豊臣秀綱」を名乗っていたと伝わっていることがこの説の由来となっています。
秀頼が生き延びていたという話は、今のところ信憑性はあまり高くありません。したがって、この豊臣家の血を引いているという説は伝説に近いものではないでしょうか。
もしかしたら、旧豊臣の家臣を味方につけるための演出であったのかもしれません。1637年という大阪夏の陣から20年以上も過ぎた時代に、豊臣という名になびく人々がどれほど残っていたか疑問は残りますが、この考えが一番しっくりくるように感じます。
目の前の道の駅上天草さんぱーるにて遅めのお昼ご飯を食べて、天草諸島の旅はおしまい。
帰りの飛行機は明日の午後なので、最後にもう少しだけ熊本観光を楽しめます。1時間30分ほど車を走らせ、美里町にある日本一の石段へ向かいます!
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