喜界島 Part 5 源平・琉球・太平洋戦争 様々な歴史が残る島内(喜界町/奄美群島)

喜界島

前回に続きレンタルバイクでめぐる喜界島。島の北東部をめぐり「平家上陸之地」「ミヤの跡」「サンゴ礁科学研究所」「震洋格納壕跡」を訪ねます。喜界島の様々な歴史を知ることができるスポットです。

<前回>

喜界島 Part 4 サトウキビの一本道からムチャ加那伝説へ(喜界町/奄美群島)
レンタルバイクでめぐる喜界島。空港からまずは北部へと向かい「サトウキビの一本道」「東日本大震災漂流漁船」「雁股(かりまた)の泉」「ムチャ加那公園」とめぐります。歴史と伝説を感じることができるスポットです。
訪問日:2024/9/25(水) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

平家伝説が残る浜辺

島の北東部に位置する志戸桶(しとおけ)ビーチ。湾になった波穏やかな浜辺ですが、ここは平家上陸之地と伝えられています。

栄華を誇った平家が滅亡にいたる、1185年の壇ノ浦の戦い。戦に敗れた平資盛、平有盛、平行盛らは入水したとされていますが、生き延びて奄美群島に逃れたという伝説も残されています。

一行は奄美大島に逃れる道中、この喜界島にも上陸。それがこの地であるそう。

その後、平資盛は加計呂麻島の諸鈍に、平有盛は奄美大島の名瀬に、平行盛は奄美大島の龍郷に居を構えていたそう。各地には、それぞれを御祭神とした大屯神社・平有盛神社・平行盛神社が建立されています。さらに大屯神社の例祭では、資盛がもたらしたと言われている「諸鈍シバヤ」という演劇・人形劇が開催されているそう。

ただの伝説で片づけるにはリアリティのあるお話。いつかそれぞれめぐって調べてみたいところです。

道の真ん中にあるミヤの跡

志戸桶簡易郵便局のすぐ目の前には、道路の真ん中に残る石垣があります。こちらはミヤの跡と呼ばれる場所。

琉球王朝時代から薩摩藩統治時代にかけて、ここではノロたちが、村人の繁栄や五穀豊穣を祈って神事を執り行った場所であるそう。現在は石垣の上に石碑が建立されており、その歴史を伝えています。

ちなみに聞き慣れない「ノロ」ですが、琉球神道において、祭祀を司る女性の神官のこと。「ユタ」と近い印象ですが、ユタは民間の巫女。ノロは琉球王朝の第二尚氏王朝・尚真王の時代に、祭政一致政策として各地に配置されたそうです。

サンゴ礁科学研究所

喜界島北東部の塩道・早町集落。ここには奄美大島や鹿児島からのフェリーが海況次第で寄港することもある早町港があります。そんな静かな集落にあるのが喜界島サンゴ礁科学研究所。サンゴ礁環境を再現した水槽・展示が見られるサンゴミュージアムや、サンゴカフェを擁する施設です。

何か見られるのかな?と思い立ち寄ってみたのですが、人の気配がありません。うろうろしていると、どこからか現れた関係者らしきおじさんが声をかけてくれました。

どうやら現在ちょうど実習が行われておりスタッフは全員出ているそう。また、展示室も実習に利用しているそうです。

おじさんもスタッフたちがどこへ行ったのか探しているとのことで、なぜか一緒に探しに行くことに!・・・と思ったのですが、研究所のすぐそばの港内でシュノーケル中でした。

結局ミュージアムは見れずでしたが、おじさんには島内のシュノーケルおすすめポイントをいくつか教えてもらえたのでラッキーでした!

戦時中に築かれた格納壕跡

サンゴ研究所の近くにあるこちらの洞窟。ここは太平洋戦争末期に「震洋」を格納していた場所。

震洋というのは、米軍艦船に対して250キロ爆弾を搭載し、体当たり攻撃を計画した海軍の木製小型モーターボートのこと。いわゆる特攻艇です。

この早町には第40震洋隊187人が配置されており、計50艇もの震洋が格納されていたそうです。出撃命令を待っていたものの、米軍が接近するこちなく終戦に。ここからは1艇も出撃することはなかったそうです。

ちなみに震洋の基地は日本各地に造られており、奄美大島のすぐ南に浮かぶ加計呂麻島でも同じような格納壕の跡を見ることができます。そちらにはレプリカの震洋も置かれていました。

加計呂麻島 Part 2 ビーチと戦争遺跡とマモルくん(瀬戸内町)
レンタカーを借りて広い加計呂麻島をドライブ!派手な見所は少ないのですが、素朴で穏やかな雰囲気こそが最大の魅力の島です。実久・呑之裏・伊子茂・諸鈍と4つの集落をさらっとめぐります。まさかのマモルくんもいます。

このあとは、サンゴ研究所のおじさんに教わったポイントでシュノーケル!と思ったのですが、信じられないくらいの大雨が・・・。待っていともしばらくは止まなそうだったので、びしょぬれになりながらレンタルバイクで昼食予定の茶屋というお店へ。非常に変わったメニューがあるのですが、それは次回の記事にて。

コメント

タイトルとURLをコピーしました