かつてこの地を治めた最上義光の居城であった山形城。広大な縄張りを持つ城でしたが、現在はその一部が公園として整備されています。博物館や体育館など、様々な利用がなされている城跡です。
公園として整備された城跡
山形駅のすぐ近くにその姿を残す山形城。もともとは、本丸・二の丸・三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城でありました。三の丸の内側の面積は235haもあり、日本国内では5番目という巨大な城郭であったそう。
現在は、その二の丸部分が霞城公園として整備されています。体育館、市営球場に加えて、国宝・縄文の女神が展示された「山形県立博物館」や明治時代の洋風建築「山形市立郷土館(旧済生館本館)」などもあり、様々な目的の人が集まる城跡です。
山形城のヒストリー
山形県といえば上杉景勝や直江兼続に縁のある「米沢城」が有名ですが、この山形城はどのような武将と所縁があるのでしょうか?その歴史をさらっとまとめてみます。
山形城は、羽州探題として訪れた斯波兼頼(しば かねより)によって1356年に築かれます。その後、斯波氏は最上氏と名乗り、山形藩初代藩主となった最上義光(もがみ よしあき)の時代に城郭が拡大、城下町も整備されます。
江戸時代にお家騒動である「最上騒動」が起こると、それを理由に最上氏は改易に。その後は、鳥居氏、保科氏など城主は次々と変わって行きますが、巨大な城郭である山形城の維持は難しく、徐々に廃れていってしまいます。
明治時代に売りに出されると、山形市が購入。陸軍の駐屯地となり本丸・三の丸は埋め立てられます。
戦後は二の丸が霞城公園として整備。1986年に国の史跡に指定され、東大手門や本丸の復元が行われます。2006年には、日本100名城(10番)にも選定されました。
復元された東大手門
城内(二之丸)への入り口はいくつかありますが、最もお城らしい情緒を感じるのが東大手門。前述の通り、復元された木造建築が広がっています。
この門が復元されたのは1991年。30年以上経ってるのに白く輝いており、まるでCGみたいな姿。
進んだ先の虎口は広々としたスペース。開放的の空間ですが、のんびりしていると、門の上に潜む兵から攻撃を受けてしまいます・・・!
東大手門の内部公開
この東大手門、4月〜11月の9:30〜16:00は無料で内部公開しております。
内部は発掘調査の際の写真や出土した瓦などを展示。お城の案内が書かれたパンフレットもあるので、最初に訪問するのがおすすめ。
こちらのガラス床は石落とし。攻め込んできた敵に石などを落として迎撃する防衛システムです。虎口でぼーっとしていたら、潰されていたかもしれません。
柱には中心にひびが入っています。これは背割りといって意図的に入れているもの。このひびを入れることで木を全体的に乾燥させることができ、ひび割れを防ぐ効果がかるそう。
本丸に蘇る一文字門
東大手門の先にある本丸。こちらも大手橋をはじめとした一部の建築が復元されています。
橋を渡った先にある高麗門を抜けると枡形という広いスペース。ここに櫓門があったそうです。
この櫓門、高麗門、枡形を総称して「本丸一文字門」と呼ぶそう。これは、櫓の形が上からみると漢字の一に見えるからついた名前とのこと。
本丸一文字門の先では、広い土地を開発中。
調べてみたところ、「本丸御殿広場」をはじめとした整備計画があるそう。まだまだ進化を続ける山形城跡、きっと次に訪問する際にはまた違った姿を見せてくれることでしょう。
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