幕末の国防のために必要だったもの『那珂湊反射炉跡』(ひたちなか市)

茨城県

茨城県のひたちなか市には、かつて水戸藩によって築かれた反射炉がありました。その跡地には、再現された2つの炉がそびえ立っています。ところで、反射炉とはいったい何をするための設備であったのでしょうか。

訪問日:2024/8/12(月) ※掲載の写真・情報は訪問時のものです

茨城に残る反射炉跡

「反射炉」をご存知でしょうか?江戸時代末にいくつかの藩にて設置された、鉄を溶かすための設備です。静岡県の伊豆の国市に残る「韮山反射炉」や山口県萩市の「萩反射炉」は世界遺産にも指定されています。

そんな反射炉ですが、茨城県のひたちなか市にも、復元された反射炉があります。ということで、立ち寄ってみることにしました。

趣き深い山上門をくぐり、階段を登っていきます。

この門は、もともと現在の東京都文京区にあった水戸藩江戸小石川邸のもの。これ以外の建築は全て失われおり、唯一残っている建築です。

幕末の動乱期には、佐久間象山、西郷隆盛、橋本左内など重要な人物たちもこの門をくぐり小石川邸に出入りしていたと言われています。そんな歴史ロマンを感じながら進むと、すぐに反射炉が見えてきました。

なお、見学は無料、受付も不要です。おそらく昼夜問わず自由に見学が可能なスポット。

そびえ立つ2つの白塔

こちらが那珂湊反射炉。登った先からは1本の塔に見えますが、正面から見ると、真っ白く輝くツインタワーの姿。その高さは約15mにも及びます。

この反射炉は水戸藩第9代藩主・徳川斉昭によって築かれたもの。

反射炉というのは大型の金属溶解炉。なぜそんなものが必要であったかというと、大砲を鋳造するのが目的。幕末には那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、海防強化のための砲台を築く必要があったのです。

建設にあたっては、薩摩藩士・竹下矩方、三春藩士・熊田宗弘、南部藩士・大島高任らの協力を得て、さらに那珂湊の大工・飛田与七らが尽力。安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年に2号炉(東炉)が完成しました。

現在立っているものは、1937年に再現されたもの。もともとあった反射炉は、1864年の天狗党の乱にて破壊されてしまったそうです。

鉄を溶かす仕組み

後ろに回り込むと、燃料を投入する炉の入口画見えます。炉内で燃え上がる炎の熱は、内部で反射することで更なる高温へ。

反射炉の高熱で融解温度に達した鉄は、正面の穴から流れます。それを型に流し込み砲身を作り、最後に水車を使って砲身をくり抜くことで完成へ。

ところで、大砲を造る技術はこれ以前からも存在したと思うのですが、いったいなぜこの反射炉が必要だったのでしょうか。

鉄の鋳造式大砲の重要性

かつては鉄板を巻いて組み合わせた「張り立て砲」が主流でしたが、接続面の暴発が多いことから鋳造式に変わります。日本には古来より「たたら製鉄」という技術がありましたが、それで作る鉄は炭素が多く強度面に問題があるため大砲には不向き。そのため、融解温度の低い青銅で鋳造するのが主流となりました。

張り立て砲よりは優れていても、青銅製もまた強度面で問題を抱えており、外国船に対しては太刀打ちできないレベルであったようです。

反射炉ならば高温を作り出すことができるため、効率良く鉄の融解が可能となります。これによって製造可能となったのがカノン砲。頑丈であるため強い火力が使用可能であり、弾道も水平に近い状態で発射可能。より遠くへ正確に弾を飛ばすことができるようになりました。

再現された登り窯

この反射炉のメインの材料となったのが耐火煉瓦であり、約4万枚も使用されていたそうです。反射炉の傍には、そんな煉瓦を焼成するための窯も再現れています。

まるでいもむしみたいの姿、この窯は「登り窯」と呼ばれるタイプ。斜面を這うように窯が連続して築かれています。一番下の窯の余熱を次の窯へ送ることができ、効率よく多数の煉瓦を焼くことができました。

当時水戸藩領であった栃木県那珂川町小砂の陶土、水戸市笠原町の粘土などを使用し、名人と呼ばれた瓦職人・福井仙吉の技術を活かして高熱にも耐えうる瓦を造り上げていたそうです。

「韮山反射炉」や「萩反射炉」に比べると展示も少なくあっさりした印象ではありますが、幕末の水戸藩における国防意識の高まりを感じることができる貴重なスポットでした。

アクセスと営業情報

ひたちなか海浜鉄道湊線「那珂湊駅」より徒歩15分。車の場合は北関東自動車道(東水戸道路)の「ひたちなかIC」より約10分。駐車場は5台分ほどのスペースがありました。

前述の通り、見学は無料です。入口となる山上門が閉門することはなさそうなので、24時間見学可能なスポットであるようです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました