古墳をはじめとした多くの史跡が残る堺市。その中でもひときわインパクトが強いのがこちらの土塔!四角錐に瓦が積み上げられており、その姿はまるでピラミッドのよう。この不思議な建造物は、いったい何のために造られたのでしょうか。
不思議なピラミッド
まずは、土塔の写真からご紹介。
瓦が段々に積み重ねられたテラスのような不思議な外観。一辺は53.1m、高さは8.6mにも及ぶ大きな建造物です。
このような形を見ると、真っ先に「ピラミッド」という言葉が浮かびますが、てっぺんが尖っておりません。方墳(四角い古墳)などで見られる、截頭錐体(せっとうすいたい)とも呼ばれる形をしています。
土塔があるのは土塔町公園という公園内。周辺では犬の散歩やジョギング、虫取りしている子供の姿が見え、生活の中に溶け込んでいる印象です。
土塔っていったい何?
この不思議な土塔の正体はいったい何なのでしょうか?ピラミッドも古墳も権力者のお墓として知られていますが、ここも誰かのお墓なのでしょうか。
まず名前に「塔」と入っているのがポイント。現代では塔=タワーのような意味合いでも使われる言葉ですが、本来は仏教寺院における仏塔を指す言葉。サンスクリット語のストゥーパが語源といわれています。
仏塔といえば多重塔や多宝塔など木や石で造り上げるのが一般的ですが、土を盛り上げてつくったのがこの土塔。形状はかなり特殊ですが、五重塔などと同様に寺院の仏塔なのです。
この土塔は神亀4年(727年)、行基によって造られたと伝えらえています。行基が畿内に建立した四十九院の一つ、大野寺の仏塔としてこの場所に築かれました。その姿は鎌倉時代に描かれた「行基菩薩行状絵伝」にも描かれています。
※本来、仏塔はお釈迦様の遺骨である仏舎利を祀るために建てられていたので、お墓という考えはそれほど遠くもないかもしれません。
気になる形状
仏塔であることはわかったのですが、やっぱり気になるのはこの不思議な形。建立された727年には、法隆寺や薬師寺など木造の五重塔が多く建っており、多層塔の建築様式は確立していたはず。突如現れるピラミッド型には強烈な違和感を感じます。
ここでインドへと目を向けて見ると、塔の語源となったといわれるストゥーパは、本来土を盛って造ったものという情報が入ってきました。中国へ渡った際に中国の建築と結合、さらに日本へ伝わり多層塔のスタイルができあがっていったそう。
この土塔はインド式の塔を真似て造ったと考えると非常に納得できます。同じく奈良時代の建築である薬師寺にもシルクロード経由で伝わったとされるインドの影響があったので、行基がその辺りに触れていた可能性は大いにあり得る・・・はず。
発掘調査と復元
土塔は平成10~14年度にかけて発掘調査が行われ、平成16~20年度にかけて整備が行われました。
周辺からは数万枚の瓦が発掘され、土塔にはたくさんの瓦が敷かれていたことがわかります。現在見ることができる敷き詰められた瓦は、復元時に載せられたものです。
見つかった瓦には、氏族をはじめ、姓を持たぬ人々などたくさんの名前が刻まれており、貴賤を問わず多くの人々の協力のもとで造り上げたと考えられています。
さらに、塔の頂点部分には、多宝塔の上層部のような建築があったそう。いったいどのような建築だったのでしょうか?公園内には、1/200の復元模型も展示されていました。
十三層の瓦が広がる屋根に高く相輪がそびえる姿はまさに仏教建築。やっと仏塔としてのイメージが掴めました・・・!
ここ以外にも土塔
ところで、国内で土塔は他に無いのでしょうか?
まず、奈良県奈良市にある頭塔(ずとう)も、この土塔と似たピラミッド状の姿をしています。こちらも瓦などが復元されており見学可能。一辺30m×高さ10mと堺市の土塔より小規模ですが、側面に石仏が残されておりなかなか見ごたえのある史跡です。
また、茨城県守谷市には土塔森林公園があり、栃木県小山市には土塔という地名があるそう。何か遺跡があるわけではなさそうですが、もしかしたらかつて土で造った塔が建てられていたのかもしれませんね。
アクセスと営業情報
泉北高速鉄道の深井駅より徒歩15分ほど。南海高野線の堺東駅よりバスも出ており、乗車時間は25分ほどでバス停《土塔》へとアクセスできます。
土塔専用の駐車場はありませんが、すぐ隣に墓地参拝者駐車場があり、土塔見学者も利用可能と記載されていました。利用時間は9:00〜17:00とありましたが、私が夕方に訪問した時は閉門していない様子でした。
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