安達ヶ原の鬼婆伝説の実態とは?『観世寺・黒塚・恋衣地蔵』をめぐる(二本松市)

福島県

安達ヶ原といえば、奈良時代に恐ろしい鬼婆が住んでいたとされる場所。周辺には、鬼婆に関連する史跡が残り、今なおその伝説を世に伝えています。この鬼婆は何をしたのか、そもそもなぜ存在しているのか、そしてその正体は・・・?スポットをめぐりながら、いろいろ考察してみたいと思います。

訪問日:2022/10/5(水)

鬼婆の伝説

ここ福島県二本松市の安達ヶ原には、鬼婆伝説が残っています。まずは、そのストーリーを簡単にご紹介。

ときは神亀3年(726年)、熊野那智で修行をつんだお坊さん東光坊祐慶が奥州を旅している際、安達ヶ原にて一人の老婆が営む岩屋の宿に宿泊することにしました。

老婆は「奥の部屋を開けてはいけないよ」と言い残し、薪を取りに出かけていきます。

祐慶は、好奇心からその部屋を覗いてしまいます。すると、そこには積み上げられた人骨が・・・。祐慶は恐れをなして一目散に宿から逃げ出します。

しばらくして帰ってきた老婆は、祐慶の姿が無いことに気づき、奥の部屋を見られたことを悟ります。鬼婆の姿になり、恐ろしい勢いで祐慶の後を追いかける老婆。追いつかれそうになった祐慶は、如意輪観世音菩薩の像を取り出し、必死に祈ったところ、天空にその御姿が現れ、光の矢で鬼婆を仕留めました。

掲載されている箇所によって細かな違いはありますが、大まかな話はこのような感じ。コワイお婆さんに襲われたお坊さんが、仏教の力でこれを退治する、といった流れです。

岩屋が鎮座する観世寺

安達ヶ原にある観世寺というお寺には、そんな鬼婆伝説に関連のある史跡が多く残されています。

境内に立ち並ぶ巨岩は、鬼婆の住家であったとされる岩屋。この岩を利用し、草屋をつくって住んでいたそう。積み重なる巨大な岩は写真で見るよりも迫力満点。鬼婆伝説を抜きにしても見ごたえがあります。

白真弓如意輪観音堂では、東光坊祐慶が遷座したという如意輪観音を祀っています。おそらく鬼婆退治の際に力を発揮した観音像のことでしょう。

岩屋のすぐ隣にある池は、鬼婆が出刃包丁を洗ったとされる血の池。血の池が隣にあっては旅人は寄り付かないのではと考えてしまいますが、きっと上手く隠していたのでしょうね。

学べる宝物資料館

境内にある宝物資料館では、鬼婆伝説をわかりやすく知ることができます。(撮影禁止)

鬼婆伝説のストーリーを描いた絵図が展示されており、さらにそれを解説する10分ほどの音声案内も。もし何も知らずに訪れても、ここでそのストーリーを知ることができます。

ここではなんと、鬼婆の凶器であった出刃包丁や、人肉を煮たという、退治された鬼婆を埋葬する際に使用したという鍬(くわ)も展示されています。

ちなみに、この資料館には服や生活雑貨が置かれた「無料コーナー」があります。鬼婆伝説の話を見たあとだと、旅人から奪ったものではないかと考えてしまいますが、実際はバザーを開く予定が中止となったためその品物を並べているそう。

悲しすぎる鬼婆誕生のストーリー

鬼婆となったのは「岩手(いわて)」という名の女性。京都で公家屋敷においてお姫様の世話役を務めていました。

このお姫様は生まれながらにして口を聞くことができず、医者に診てもらってもどうすることもできません。「妊婦の胎内の胎児の生き胆が効く」という占い師の言葉を信じ、岩手は生まれたばかりの自分の娘をおいて旅に出ます。ここ安達ヶ原にたどりついた岩手は岩屋を宿とし、妊婦が通りがかるのを待ち続けました。

長い年月が過ぎたある日、生駒之助・恋衣という名の若い夫婦が宿へと訪れます。恋衣は身重であり、産気づいたため生駒之助は薬を買いにでかけます。岩手は絶好の機会とばかりに恋衣を襲い、胎児の生き胆を奪ってしまいました。

しかし、恋衣が身につけていたお守りを見た岩手は愕然とします。それは、岩手が京都から旅立つ際に娘に残したものだったのです。岩手は自分の娘を手にかけてしまったのです。

この出来事で狂ってしまった岩手は、旅人を襲っては生き血をすすり、人肉を喰らう「鬼婆」となってしまったのでした。

周辺の鬼婆スポット

如意輪観世音菩薩によって光の矢で仕留められた鬼婆は、観音様の導きによって成仏します。その後、祐慶がこの鬼婆を祀ったとされるのがこちらの黒塚。言うなれば鬼婆の墓で、観世寺からすぐ近くにあります。

一本の大きな木が立ち、塀に囲まれています。知らなくても、ここは何かがあった場所というのがひしひしと伝わる雰囲気。

さらに観世寺より1kmほどのところにある恋衣地蔵は、鬼婆に殺されてしまった実の娘である恋衣を祀ったもの。屋根の上の露盤にもしっかりと「恋衣」の文字が刻まれています。

鬼婆の正体は・・・?

こういった伝説の話を聞くと、どうしても気になるのがその正体。日本各地に残る妖怪は、自然現象だったり、教訓的な意味合いだったり、渡来人説だったりと、様々な考察がなされています。

ということで、この鬼婆伝説の正体を考えてみよう!

お寺の住職さんから聞いた話によると、この岩屋からは縄文土器や弥生土器が出土しており、古代に人々が暮らしていたことがわかっているそう。もしかしたら埋葬された縄文人や弥生人の人骨を発見した人が、話を膨らませて鬼婆を作り出したのかもしれません。何か価値のあるものが発掘され、横取りされないように人々が近づかなくなるように怖い話に仕立て上げた可能性も考えられます。

と、空想のお話路線で進めてしまいましたが、この鬼婆伝説は妙にディティールがはっきりしています。登場人物も名前がありますし、精神が崩壊して鬼婆となるエピソードや鬼婆を弔った黒塚の存在はかなりリアル。真偽は定かではありませんが、実際に鬼婆が使用した道具まで残されています。

唯一、ファンタジックな鬼婆を退治したという菩薩の光の矢ですが、これは武力などで鬼婆を退治したお坊さんが仏教の力を誇示するために作り上げたと考えればそれほど不思議ではありません。

ここで改めて鬼婆ストーリーを見直していて気が付いたのですが、そもそも鬼婆は不思議な力などを使っておりません。

人を襲う残虐性はあれど、普通の人間と大差無く描かれています。鬼婆は別に妖怪といった類ではなく、ものすごくヤバイお婆さんであったと考えると、この話は妖怪伝説ではなく単純に猟奇的な事件だったのかもしれませんね。

(一点、なぜ京都の岩手が奥州の安達ヶ原まで来て、妊婦を待ち伏せしたのかというところは疑問が残ります。ここがはっきりするとさらに現実味が増しそうなところですが、詳しくはわからずです。)

 

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